今日は小学校の先生の転任式ということで長男坊も朝から登校。いつもより1時間遅いタイムスケジュールでの登校である。いつもの集団登校はどうなるのだろうと考えたが、去年も集まらずに各自で登校した記憶があるので、8時半ごろに家を出る。途中まで一緒に行き、小学生の集団が現われた所ぐらいで僕だけ引き返した。
一応家を出るときはランドセルを背負って出たが、他の子どもたちは手提げバッグ程度の装備のようである。その様子を見てランドセルに入れていた手提げ袋だけ持って長男坊は走り去っていった。ランドセルは僕が持ち帰ることになった。
家に帰ると同じ登校班の子がうちの子を呼びに来ていた。あれ?もう行ったけど?
そして今夜は妻の職場の送別会。今日は幹事で忙しいらしい。
昨日は髪を切りに長男坊と市内へ。最近は同じ店でついでに長男坊も切ってもらうようにしているのだ。といっても前回きったのは三ヶ月前だけど。
予約した時間より少し早めに着いたので本屋などで時間をつぶす。長男坊は「妖怪ウォッチ」の単行本3巻、そして僕は岩波文庫から新しく出た夏目漱石の『鉱夫』を購入。この新しい『鉱夫』は新聞掲載時の挿絵も掲載されている。
解説のところに村上春樹の『海辺のカフカ』で夏目漱石の『鉱夫』がとりあげられたことが書かれてあって、岩波文庫の解説に村上春樹が出てくる時代になったことを再認識。帰りに無印で長男坊用にスタジャンを買った。春の上着として。
もう夕方にさしかかっていたので、スシローで夕飯用に寿司を持ち帰りすることにした。注文時お腹がすいていたせいか買いすぎてしまったが、結果としては気兼ねなく食べることができて良かった。きゅうり巻きと納豆の軍艦巻きが残ってしまった。
ウニャ子の保育園は三人の先生が移動。ウニャ子と仲の良かった先生たちもみんな移動ということで寂しくなる。

今日はウニャ子の保育園の卒園式。といっても今年までは送り出す側なので開始30分ぐらい前に登園して、式が終わったぐらいの時間(11時過ぎぐらい)には迎えに行く予定。天気はきのうからの続きであいにくの雨。それはともかく卒園おめでとうございます。
長男坊はすでに春休み突入。一昨日、すこし左側のほっぺたが腫れているのが気になって春休みにさっそく歯医者へ。ほんとうは31日に予約していたのだが急遽連れて行くことにした。やはり虫歯の影響らしいがもしかしたら中が膿んでいるのかもしれないとのこと。乳歯の虫歯というのは大人の虫歯ほど黒くならず、また痛みもあまりないらしい。歯医者によれば次の治療で神経を抜くとこと。なんか腫れているぐらいで大事だなぁと思ったが、乳歯なので神経を抜いてもまた生え変わるから問題ないということらしい。しかし。う〜ん。やっぱり子どもたちの食生活を見直す必要がある。すこしお菓子を食べすぎかも。それにもっとちゃんと歯磨きを徹底せねば。

昨日、つ、ついにバイト代をつぎ込んで福岡のアップルストアipad airを購入・・・。ちょうど学生・教職員キャンペーンの時期ですこし安く買えた。教室のプロジェクタにつなぐためにVGAアダプタ(純正品だけど高いなぁ。アダプタが5000円とは)も一緒に購入。自分や仕事への投資だと思えば・・・許される・・・よね?
子どもも春休みなので福岡まで足を伸ばし、昼ごはんを食べてから福岡パルコで行われた「よつばとダンボー展」を見た。グッズや設定画、原画もたくさん展示されていて長男坊もご満悦。楽しかった。これはまた行きたい。その後もタワレコ行ったり、オレカのゲームができるところに行ったり、アニメイトに行ったりと天神界隈をウロウロ。
そしてメインイベント。アップルストアへ。
想像していた以上にすごい人の数。店内もオシャレだが来ているお客さんたちも何だかオサレ。スタッフの数もすごい。そして丁寧な対応。なにこの「すごくいい店ですごくいい買い物した感」マジパネェ。長男坊はそのあいだずっと店内のipadでゲーム。スタッフと適当におしゃべりしている内に基本的な設定も終了。平日だからまだこの程度の混雑だが土日になるとさらに3倍ぐらいの混雑になるという。
しかし、通販の手軽さもいいが、こうしてアップルストアという本丸で買い物をするというのは気持ちがいい。長男坊も「大きくなったらあの店でパソコン買いたい」って言ってた。恐るべしアップル・マジック。しかし、長男坊やウニャ子たちが大きくなって例えばアップルストアでパソコンを買うとき、いったいどんなものになっているのだろう。
まだケースとかカバーとか周辺のものは買っていないが、これからそろえていけばいいだろう。アップルストアのスタッフによると、ipad airのディスプレイには保護シートを貼らない人がほとんどだという。確かにせっかくきれいな液晶なのだから何も貼らないほうがいいのだろうけど、自分は貧乏性なので不安だから絶対貼ると思う。

昨夜、温泉からの帰りの車の中で長男坊が「生まれ変わりとか前世の記憶とかは科学的に説明がつく」という話をし出した。録画してあったNHKの超常現象特集をちょうどその日の昼間にを見たのだった。
内容は心霊現象や超能力やテレパシー、生まれ変わりなども或る程度までは物理的・脳科学的に説明がつくという、いかにも長男坊が好きそうな話だった。(阿部寛がナビゲーター役だった。)
しかし、ここで彼の中で一つクエスチョンが生じるわけである。小学校の校長先生は訓示などで「一度死んだら生き返ることは無い。だから命は大切にしなければならない」と言うわかだが、この校長先生の話と「生まれ変わり」の話はどう関係するのか。死んだら生き返らないということと、死後はまた生まれ変わるということは、一見すると真逆のことである。
どう考えても校長先生の言うことのほうが正しくまっとうであり、生まれ変わりや輪廻転生という概念自体、ある世界観・宗教観に限定されるものではあるのだが、そのあたりの細かいことは「聖☆おにいさん」にまかせることにして、妻が次のように説明した。
仮に生まれ変わるということがあったとしても、その生まれ変わった人間は今いる自分ではない。もう今の家族や友達と出会うことも無く記憶も何もかもなくなって、まったく別の存在として生きることになる。その意味では一度死んでしまったらもう自分は自分ではなくなってしまう。だから今生きている自分を大切にしなければならない。だから自殺なんてしてはいけない。
そんなこんなを話しているうちに家に着いたのだが、いつのまにか妹のウニャ子が静かになっている。しかも泣いている・・・。ウニャ子的には「死ぬ」とは「いなくなる」という話がとてつもなく怖かったらしく、その話のあいだ必死に楽しいことや面白いことを脳内再生しようよしたらしいがダメだったらしい・・・。
家に入ってもしばらく泣いていたが、フルーツを食べたら元気になった。いつもは女王キャラのウニャ子だが、ときどきこういうことがある。

今日は小学校の終了式。小学2年生も今日まで。来年度から長男坊は3年生、ウニャ子は年長組である。

先週の木曜ぐらいから喉の痛みと咳、鼻もつまりがちでやや頭痛。36.8度〜37.2度という微妙な熱。これはどうみても風邪というか季節性のアレルギーだろう。子どもたちや妻のインフルエンザや風邪が過ぎ去ったと思ったら今度は自分の番だとは・・・。
二日ほど省電力モードでのど飴舐めながらごまかしていたが、やっぱり病院へ行くことにした。病院では「熱は高くないけど流行っているし念のため」ということでインフルエンザ検査。結果が出るまで寒いレントゲン室で待機。
結果は陰性。シロ。抗生剤や咳止めの薬をもらう。食欲は普通にあるし、何か温かいものが食べたかったので昼食はちゃんぽん。子どもはラーメン。妻のお昼ご飯に焼きうどん(大)を持ち帰り。
長男坊をスイミングスクールに送り出した後、昼ごはんを食べ損ねたウニャ子とよく知っているカフェへ。チョコバナナパフェを注文したがウニャ子は店内にいた居候ネコに夢中。このネコ、ほんとうに子どもを嫌がらない。素晴らしいネコ。おかげで僕も久しぶりにネコもふもふ成分を補給。

なぜかヘッドフォン熱が数年ぶりに盛り上がってしまって新しいヘッドフォンを購入。AKGのK612pro。ほとんどルックスと値段で決めた。いままで使っていたAKGのK121studioもぜんぜん悪くはないのだが、何年たっても装着感というか締め付けの強さが気になっていた。一度パットをベロア製変えたらだいぶ良くなったけれど、それでも耳が痛くなることが多い。
しかしAKGのK121studioの名誉のためにも一言付言しておかなければならないが、これはヘッドフォンの締め付けの強さ(ロットによる個体差もあるだろう)と僕の感覚の相性の問題であって、音はどんな音楽を鳴らしてもキツさがなく、聴き疲れのしない、上品で素直な音だった。AKGのK121studioというヘッドフォン自体は、値段の割には(確か買ったときは6000円ぐらいだったと思う)とてもすぐれた機材であることは間違いないと思う。ヘッドフォンといっても上を見ればきりがない。2万3万は珍しくない世界だが、僕ぐらいの平凡なリスナーにとってはこのAKGのK121studioはとてもいい選択使だったと思う。
新しく買ったAKGのK612proは、同時期に発売されたAKGのK712proに比べるとレビューも少ないしいまいち注目度が低いようだ。木曜日に届いたばかりでエージングもまだぜんぜんだが、それでもとても広がりがある聴き疲れのしない音で好感が持てる。装着感も良好。
ただ、いろんなレビューを読んでみると、インピーダンスが高い(120Ω)のでヘッドフォンアンプが必須とかあって、下手するとオーディオ泥沼の予感。また、構造上しかたないが音もれは盛大。ちょっとした小型スピーカーぐらいよく聞こえるので公共機関での使用はダメ。絶対ダメ。

きのうが小学校は卒業式だったようで、長男坊はしきりに「長い時間座ってるのが退屈だった」と言っていた。まぁ、6年生とその家族、先生たち以外の人にとってはそんなものだろう。
彼の話によれば、号泣している子もいたらしいが、僕は子どもの頃から卒業式などのセレモニーで泣いたことが無い。一つにはもうずっと予行練習などで何度も同じことをやっていて別に意外なことは無いというのと、あとは泣いても怒ってもそういう時はくるのだし、そんなことははじめからみんなわかっていることで泣いたからといってどうなるものでもないと思っていたからだ。
あと考えられるのは、子どもの頃はどんな集団であれ帰属意識が薄かったのかも知れない。一区切りついたんならさっさと次の段階に行きたいし、他のメンバーと別れるといっても別に今すぐ死ぬわけではないし、会いたくなったら会いに行けばいい(会いに行ったことはないけど)。
卒業後もOBとかなんとかいってずっと昔自分が属していた集団(大学のクラブとかサークルとか)にかかわり続けることのはらむ問題については、少なからず困った実例を見てきた。まぁそれはそれで、ぐらいな適当さが必要だろう。
春が近いのだろうか、昨夜は嵐のような雨が降ったか思うと、朝窓を開けると車のフロントガラスに雪が積もっていた。マジ三寒四温パネェ。そういえば夜中に家の壁や屋根裏を走り回る小動物の気配がした。最近暖かくなったから外に出てみればマジ寒い!な感じだったのだろうか。
子どもたちは今日から3連休。なんとなく家族全員アレルギーか何かだと思うが咳っぽく、喉が痛い。僕も熱っぽい気もするが、測ってみるとパーフェクトな平熱。なんだこれ。のど飴もなくなってきた。
ウニャ子の保育園も卒園式が近づいている。ウニャ子ははやく年長組になりたいとしきりにそんなことばかり言うのだが、要するに「上に立ってみたい」のだろう。あの性格からいって・・・。

中公文庫からアウグスティヌス『告白』が文庫(三分冊)で新装発売される。

そういえば昔の「世界の名著」ヴァージョン(こちらは二段組で一冊)で持っていたなと思い、つらつらページをめくる。やはり自分が非キリスト者だからだろうか。どうもよくわからないところも多い。
「世界の名著」シリーズは今でも「中公クラシックス」などのかたちで再版されてるが、付録の解説はがぜん古い「世界の名著」ヴァージョンのほうが量も内容も長大な場合が多い気がする。ハイデガーの「存在と時間」の中公クラシックス解説は、古い版でも翻訳・解説を担当した渡辺二郎が新たに解説文を寄せていたが、案外あっさりしていて「あれ?」と思った記憶がある。古いほうには原佑と一緒にハイデガーの自宅を訪れた際のエピソードもありでなかなか濃いものであった。もちろん現代の研究水準からくらべて解説として賞味期限を過ぎているとか、スペースの問題もあるのだろうが、元本の「世界の名著」シリーズはどれも解説だけでおなかがいっぱいになった。
とくに「なぜこの研究の道に足を踏み入れたのか・なぜ自分がこの本を翻訳することになったのか」が自分の生い立ちと共に書かれていて、この部分ははどの本もいつも興味深く読まされる。
すこし年の離れた従兄弟や叔父に当たる人が遠く離れた大学宿舎や軍の宿舎から帰ってきては、自分が聞いたことも無い書名や人名、概念について話してくれる。そしていつのまにか自分もそれに類する本を読みふけるようになって・・・というパターンが多い気がする。(そして往々にして、その従兄弟たちや叔父たちは不幸にも戦火に消えていく)ここには「学び」がどう立ち上がるか、そしてそれがどのように育っていくか・受け継がれていくかということについて重要な示唆があるような気がする。
「世界の名著・アウグスティヌス」のなかで訳者・解題者の山田晶先生は「そのころ一身上にある事件がおこり、わたしは自分の弱さを骨の髄までしらされて、こころをいれかえねばならないと決心した。それまでわからなかった回心ということが内面からわかった気がした」(p.11)といきなり「告白」しはじめて、読んでるほうはいったい何があったんだ?とびっくりしてしまうが、この世界の名著シリーズの解説は全体を通じて、こういうよくわからないモヤモヤが残るような「告白」が多い。

昨夜は妻が職場のひとたちと打ち合わせ&飲み会ということで、小学校から帰ってきた長男坊が進研ゼミを終わらせたタイミングでウニャ子を保育園に迎えに行き、そのまま夕飯を食べに行く。子どもたちはラーメン、そして僕はこのところすっかりはまってしまった焼きうどん。
その話をすると、実は妻も昼食にこの店で焼きうどんを食べたらしい。しかも大盛り。

日曜の同窓会で、退官される先生に(そもそもこの会は先生の退官祝いの意味もあったと後で知った)、「倫理」についての論文も書かなければだめだと言われた。僕のいままでの論文は主に知覚や他者、認識、芸術、政治哲学を扱ったものばかり。
特別「○○倫理」という表題のものはない。(○○には生命だったり環境だったり、各自が好きなものを入れてよい。)たしかに、なんとか倫理ということを研究しているアピールは大事なのだろう。その先生も生命倫理を研究したりしていたから余計にそういう感想を持ったのだろう。
もちろんその言わんとしているところはわかるし、頭でも理解できる。しかし、「就職に有利だから○○倫理について無理やり論文を書く」ということに恐ろしくやる気を感じられない。というか、倫理学を専門にしっかり研究してきた人たちと公募でポストを争うということになった場合、僕みたいな付け焼刃の倫理学論文1、2本でいったい何ができるというのだろうか。何か違う気がする。もちろん「世渡り」ということを考えるならば「就職に有利だから○○倫理について無理やり論文を書く」ことは必要なことなのだろうけれども、どうも今の自分にとっては違和感んばかりが募る。
そもそも「○○倫理」という表題を持つ論文はほんとうに倫理を問題にしているのか?「○○倫理」を研究しているということを、学者の社会に対する免罪符の代わり(自分は社会に貢献している・だから自分は許される)と考えているのであれば、それはちょっと違うのではないか。
など、よくまとまらない考えをつらつら話していたところ、妻に「スタイルを変えるな」という助言をもらった。助言をもらった、というか『女帝』(最近妻がiphoneで読んでいる)という漫画でそう言ったよ、と教えたもらった。
このマンガは家庭の不幸をのりこえ、成功をつかむために火の国熊本から上京し、銀座の女帝になろうとするまさに火の国の女的主人公を描いたものらしい。そのストーリーの展開の中で、低料金・カジュアルを売りにする店が銀座周辺に乱立し、そこに客が流れてしまう。銀座の人たちは弱気になってしまって、銀座もカジュアル化しなけらばならないのではないかという流れになったとき、銀座に飲みに行くということを励みに日々仕事している客もいる。ステイタスにしている客もいる。だから「スタイルは変えるな」と主人公は喝を入れる。なるほど〜と思いつつも、そう考えるなら「スタイルを変えずに変わること」も可能なのではないかと思った。