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- 出版社/メーカー: ワーナー・ホーム・ビデオ
- 発売日: 2004/07/09
- メディア: DVD
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でも、ものすごく緻密で、一瞬も見逃せないような素晴らしい映画だと思う。
もちろん、ここでの一瞬も見逃せないというのはスピード感や計算された構図とか、そんなことではない。
むしろ、ときどき、ふと、「映画」らしくない、悪く言えば間延びしたシーンが異物のような感触をむき出しにする。そんなシーンにぶち当たると思わずドキッとする。
間延びという言い方は不正確かもしれない。
出演者の優れた技量によって、どんなに無言のままカメラが長回しに映し続けたとしても、画面から緊張感は決して途切れることはない。
だが、映画として、「物語」として観ているこちら側が、不意に映画から見つめ返されたような気になる。
見つめ返される・・・?
そういえば丹生谷貴志もこのようなイーストウッドにおける異質感についてこう述べていた。
しかし、イーストウッドの演出には絶えず<物語>の枠組みを綻びさせ逸脱してしまうものへの寛容、むしろそれへの奇妙な執着すら感じられることがある。敢えて言えば、<物語>を貫きながら密かにそれを分散させてしまう「愚鈍さ」、<外>の時間の絶え間ない介入への執着のようなものがそこには感じられるのである。
人生の日曜日/『ドゥルーズ・映画・フーコー』所収ISBN:4791754638
こういう見方はあまりよくないのだろけど、見ていて、どうしてもやはり丹生谷貴志の次の言葉が浮かんできてしまう。
イーストウッドが、すでに死んであることというシチュエーションを奇妙に偏愛してきたことは誰もが知っている。
崩壊に曝された顔/同書
あるいは、
「崩壊過程」の緩慢だが確実な速度への受身の無力を「倫理」として引き受けること・・・以降これがイーストウッド的映画の系譜を形成していくことになる。
崩壊に曝された顔/同書
主要な登場人物三人は、死という可能性を無限に孕んだ、或る事件の後を生きる。
事件に巻き込まれた一人を含めて、三人とも生き続けるのだが、その一人だけでなく、全員が可能性としての死という死後の世界を生きている。
そんなこと言ったら、この世界のすべての人はそのような可能性ととしての死を生きているのであり、こうやってゴタクを並べている僕もまたそこからは逃げることができない。
しかし、それが良い悪いとかはどうでも良い。
イーストウッド的倫理、つまりゆっくりとだが、確実な「崩壊過程」を生きること。
そして「どうせ人は死ぬ」という安っぽいニヒリズムからこの「崩壊過程」を救いだすこと。