なんとなく、な。

暑中・・・、じゃなくて残暑見舞いハガキを作ったのだが、よく考えたら、特に出す人もいなかった。何人かはいるけど、住所がよくわからない。

なんとなく、新しく買ったデジカメ付き携帯で撮った写真を印刷してみたかっただけなのかもしれない。


きのう、ふろく目あてに妻が「ハチミツとクローバー」が連載している雑誌を買った。
ふろくというのが、ハチクロのクリアファイルなのだが、微妙に、A4サイズは入らなそう・・・。

ふだん、ジャンプとかも買わないし読まないので、マンガ雑誌というものを久しぶりに読んだのだが、世の中にはそれこそ無数のマンガが存在するのだなぁ、と、ちょっとボーっとなった。

来月発売されるハチクロのコミックス最新刊は、通常版とは別に、「ハチクロかるた付き」の限定版もあるらしい。う〜ん、ちょっと欲しいぞ、それ。

あと、全プレとして来年のハチクロ日めくりカレンダーも用意されているらしい。たぶん、応募するだろうな。俺。



言葉は人と対話するためのもの(ツール)だ、という意見も確かにそうだろうとは思う。でも、対話になかで、勝手に言葉が出てきて、ときどき相手からドキッとする言葉がでてきたりするとき、言葉とは、他者との対話のためのツール以上のものだろうと思う。
つまり、言葉は、頭の中で考えていることがそのまんま翻訳されてアウトプットされたものだと考えていると、僕は言葉の向こう側の人と話していることになる。そのとき言葉って「考えの内容」の外側でしかないから。

でも、考えているのは言葉の向こう側、翻訳以前の「考えている私」ではなくて、「話している私」なのではないか。
言葉を通じて、そこには誤解の可能性もあるけど、他者の考えを獲得し、その人について反省し、ときには他者に従って考えるということも可能になるのだろう。それはある時点での自分のOSが、あるときにバージョン・アップしてバージョン1だったものがバージョン1.1とか1.15とかになることだ。

もちろん、常にそういう事態が対話の中で起こるとは限らない。徹底的に「閉じた」対話もある。最初から完全に自分のなかにシナリオがあって、それにあわせて相手に話させて、そのシナリオにのらない話がでてくると急に目が虚ろになって、「つまり・・・」とか言ってけっきょく強引に自分の文脈に組み込んでしまう人とか、そもそも、自分が話したいだけで相手の意見を聞く気が無いというか、自分の意見が通らないと気がすまない人との対話がそうだ。そういうとき、はっきり言って、「あんたの話って、相手が俺じゃなくてもいいだろ?」と思ってしまう。
決まって、そういう人は、眼が虚ろだ。どんなに社会的地位のある人も。どんなに笑顔がまぶしくても。そんな人に対して、「それがあの人の押しの強さっていうか、ヴァイタリティの強さだよ」なんて評する人もいるけど、単に押し付けがましいということと、ヴァイタリティがあるということが一緒のことだとは思えない。そんなにヴァイタリティが強かったら、他者の前で今までの自分自身が一度壊れて、新たに再編成される可能性のある経験を忌避しなくてもいいじゃないかと思う。自分以外の他なるもの、新しいものに出会ったときにどう反応するかがその生物の創造性というか、強さだと思うのだが。


と、偉そうに言ってみたが、僕自身は人前や、人と話すのが苦手だ・・・。