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きのうの日記で触れた「Style Cafe」がはてなのキーワードになっていてびっくりした。内容は、熊本市内にあるオシャレなカフェ云々ということだったが、でもこれぐらいだったら同じ店名の店って、日本中に5000件ぐらいあるのではないだろうか。まぁ、それはともかく、ちょっとびっくりだ。
きのうは館長にいろいろと絵のことを話してもらった。絵の見方というか、そんな大げさなことではないが、なんだか自分の身(というか能力というか)が儚くなるような気がした。
異質な線、奥行きとprofil(側面)、書いた線と消した線、時間的なズレ(デリダ的な差延?)・・・いろいろと自分が考えていることと重なることがあって、それについて言おうとしたのだけれど、館長の話の展開のスピードや勢いに負けてあんまり喋れなかった。
定石というものがあって、それを踏まえて前に進んでいくことも、それはそれで大事なことだ。
では、あえてその定石というものを避けてものごとを考えるにはどうすればいいのか。自身において「自身の定石の無さ」を確証するものは何か。
そもそも、定石に寄らないということと、自身がその手と足と身体で手に入れたものに依拠するということは区別されなければならないだろう。
定石を崩すのではなく、むしろそこには崩す定石すら無いということはそういうこなのだろう。
では、そこで話は戻ってしまうが、定石を踏んでいないということはどのようにして言うことができるのだろうか。そこには絶えざる自己検証の運動が必要だということだろうか。
そして、だからこそ、常に新しい表現を生むことができるのであれば、この絶えざる自己検証の運動を可能にするのは何なのか。館長によれば、それは訓練や練習によって手に入れることができない種類のものらしい。
(とすれば、ますます我が身が儚く思えてしまう。)
たとえばメルロ=ポンティが参照するようなソシュール言語学のように、言語活動(langage)をラング(言語体系langue)とパロール(発話parole)に分けて考える考え方があるとして、そこでは一般的な言語の使用法・手持ちの意味の体系であるラングに拠ってこそ、パロールという実際の言語表現が可能になると考えられている。
しかし、両者はそうした一方的な依拠関係に終始するものではなく、パロールにおける実際の表現の場面が、今度は逆に慣例や用法の体系であるラングを改変するように、過去が現在を規定し、同時に(あるいは同じ一つの現象のもう一つの系として)現在が過去を規定しなおす内的な循環関係が存在している。
とすれば、何か新しいものを生み出すということは、まったく何物にも拠らずにものごとを生み出すことではなく、常に手持ちの意味(手持ちの駒と言ってもいいかもしれない)としてどのようなものを持っているか、そしてそれらをどのようにして組み合わせていくかということにかかっているのではないか。
仮に、そういうことがすべての人に可能であるとして、それでも、人を感動させるものを生み出す人と、そうでない人の違いは(同じ言葉を持っているのに、全然無内容なことばかり言う人と、その言葉が詩になる人の違いは)何なのだろうか。
手持ちの意味の体系は、既存の意味の集積であり、それに依拠する限り、意味ある言明を作り出すことが可能だ。
しかし、そうした既成の意味体系からはみ出すよな、すなわち館長の言うような「無意味な意味」はどのようにして可能なのか。
どうして今日は文章がやたらと疑問形なのか。