ごろん。

きのう、妻の実家からメールが届いた。
そこにはこんなことが書いてあった。
スーさんが死んで、もうご飯の用意やトイレの始末もしなくてもいいけど、寂しい。

それがどんなに咬みグセのある、ちょっと臭い猫(スーさんはちょっと臭かった)でも、その人がただそこにいるだけで、家族や家の微妙なバランスの一角をなしているということは大いに考えられることだ。

だからもうしばらくの間、われわれはスーさんの死によって生み出された空白を、その不在によるアンバランスな感触を生きなければならないだろう。

でも、喪失や不在は「無」ではない。それは、「無」や「不在」ということそれ自体が言葉だからであり、語られたときに初めて「無」や「不在」は存在することができるからだ。

スーさんは死んでしまったがスーさんは不在として存在し続け、逝きし者として生き続ける。

それは「死んだ人は私達の心の中に生き続ける」というのとはちょっと違う。
「私の心の内側」ではなく、私が見るもの、触れるものはもちろん、視界の隅をよぎる影、聞こえてくる外の物音の中に、「事実として」生き続ける。
もちろん、それは科学的な意味での事実ではない。数値化もできなければ客観的証明も均衡値も示すことはできない。

たいていは気のせいだったり、動物かと思ったら積まれた洗濯物だったり、そんなものだ。

でも、まさに私がそう感じたのだという事実。それだけで十分ではないだろうか。

如何にしてスーさんは晩年をむかえたのか

しかし、スーさんの最後の数年間は、もちろん病気によって固いものが食べられなくなったり、痩せて毛もバサバサになったり、口が臭くなったりしたかもしれないが、幸せだったのではないだろうか。

妻の姉の結納にも同席し、そして数年後には僕と妻の結納にも同席することができ、そして義姉夫婦のところに生まれたふたご達ともスーさんは仲良しになった。

みんなスーさんが可愛いふたごを咬みやしないかとハラハラして、時には家から追い出されて隔離されたりしたが、結局、絶対にふたごを咬むようなことはなかった。

ふたごに踏まれたり、毛を掴まれたりしてもスーさんはいつも我慢していた。

そういうところだけ妙にお兄さんだったのだ。

まるで結納の品かのようなスーさん(写真左端)。
なんかおめでたい写真みたいだ。
でも、実はこのときでもスーさんは鯛を狙っていたのだ。


スーさんについて書こうとするといろいろな出来事や考えが浮かんでは消えていき、4日分の日記の分量を費やしても、最初に思ってたことの100分の1も書くことはできなかった。

でも、スーさんにとってはそんなことはどうでもよくて、ここに書かれたことを読んでも「俺には関係ないぜ」と言うだろう。そんなことはでも最初からわかっていたことだ。

でも、またいつか君について書かせてもらうよ。まだ書いてないこともたくさんある気がするから。それまではまた日々のどうでもいいことをしばらくの間ここに書き連ねていくことにするよ。

・・・彼は肯定的であった。病と死においてすら肯定であった。なぜ私は彼を過去形で語っているのだろうか。彼なら笑っているところだし、現に笑っている。ほら、そこにいて。彼は言うにちがいない。それは君のばかげた悲痛というものさと。


J = F・リオタール『彼はバベルの図書館であった』(「現代思想」1996年1月号 緊急特集 ジル・ドゥルーズ