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僕は昔から猫を飼うことに憧れていた。
しかし親が動物が嫌い(世話をするのが嫌い)だったので、猫なんて論外だった。
といっても、母の実家には猫がいたのだが。
その猫はシロといって、真っ白な猫ではなかったが、だいたい白い猫だった。
子供が嫌いで、盆や正月に親戚中の子供が集まるとフッといなくなるような猫だった。
コタツに足を入れようとしてもコタツの真ん中にシロがいるので子供はシロを丁寧に避けながら足の位置を確定しなければならなかった。
そんなシロも一度だけ、シロ自身のほうから僕のひざへ乗ってきたことがあった。
シロが死ぬ前の年で、そしてそれがシロと会った最後のときだった。
祖母から聞いた話では、本人は何処か姿を消して死にたかったようだが、シロは老衰し切っていて家を出たぐらいでバテてグッタリしているのを祖父に見つけられ、連れ戻された。
だが結局は裏の畑で(きっとそこまで歩いてくのが限界だったのだろう)シロは一人で、静かにその眼を閉じた。
家族みんなに看取られて、自分を取り囲む人々の姿を目に焼き付けながら死んでいく猫もやはりいるのだろうか。わからない。きっといてもいいと思うし、幸せだと思う。
でも、スーさんは(そしてシロも)それとは別の方法を選んだ。
スーさんは電気アンカが置かれたいつもの寝床で、誰にも気づかれないように眠るように死んだ。
その眼に最後に映ったものは何だったのだろう。
それが祝福と安らぎであることを僕は信じたい。
如何にしてスーさんはスー子ちゃんとなったのか
1995年から96年はスーさんにとっては受難の時期だったのではないだろうか、おそらく。
スーさんもまた、プーと同様に腎臓を悪くし、同時に尿管が詰まってオシッコが出なくなってしまう病気になってしまった。
そしてスーさんは大手術を受けることになった。
その手術によって、すでに去勢されていたスーさんは、さらに残った部分も切り取られ(腫れて炎症を起こしていたので)、家族からオカマ猫、ニューハーフ猫と呼ばれることになってしまった。
それ以後、スーさんは「スー子ちゃん」、あるいは「ニャニャ子さん」と呼ばれることになる。
しかし、スーさんにとってさらに大変だったのは、義父の当時の仕事の都合で、家と赴任先を猫バッグに入れられてクルマで往復する生活が続いたことだった。車での移動や環境の変化はスーさんにとってストレスだったにちがいない。
スーさんが家にいない間にスーさんのナワバリは他の猫に取られていた。
如何にしてスーさんは白くなったのか。
僕が初めてスーさんに出会ったのはさらにそれから数年後の1999年か2000年だったと思う。
初めて妻の実家を訪れたとき、スーさんは外で喧嘩をしていた。
「ウ〜」という威嚇的な鳴き声が聞こえたので妻が外に出てみると、スーさんはやられていた。スーさんは喧嘩にそう強くはないのだ。
しかし、興奮したスーさんは助けに来た妻にガブッと噛み付き、前回の日記に書いたように、妻はズボンに穴が開くほど咬まれて、血がダラダラ流れていた。
初めて会ったスーさんは興奮して全身の毛がモフーッとなって、ちょっとブサイクだった。
それにしても、そんなことが起こってるのに義父や義母は「まあよくあることですよ」という感じで、平気な顔していたのがちょっと笑えた。
スーさんはみんながご飯を食べていると「何かくれよ」とやって来た。
病気のせいで(晩年は歯も悪くして)専用のペットフードを食べていたのだが、スーさん的にはそれは好みではなかったらしく、「肉くれよ。肉。」と迫ってくるのだ。
このときの、スーさんが座っている僕の足に乗るときの、あのズシリとした感覚は今でも覚えている。