ごろん。

きのう、妻の実家からメールが届いた。
そこにはこんなことが書いてあった。
スーさんが死んで、もうご飯の用意やトイレの始末もしなくてもいいけど、寂しい。

それがどんなに咬みグセのある、ちょっと臭い猫(スーさんはちょっと臭かった)でも、その人がただそこにいるだけで、家族や家の微妙なバランスの一角をなしているということは大いに考えられることだ。

だからもうしばらくの間、われわれはスーさんの死によって生み出された空白を、その不在によるアンバランスな感触を生きなければならないだろう。

でも、喪失や不在は「無」ではない。それは、「無」や「不在」ということそれ自体が言葉だからであり、語られたときに初めて「無」や「不在」は存在することができるからだ。

スーさんは死んでしまったがスーさんは不在として存在し続け、逝きし者として生き続ける。

それは「死んだ人は私達の心の中に生き続ける」というのとはちょっと違う。
「私の心の内側」ではなく、私が見るもの、触れるものはもちろん、視界の隅をよぎる影、聞こえてくる外の物音の中に、「事実として」生き続ける。
もちろん、それは科学的な意味での事実ではない。数値化もできなければ客観的証明も均衡値も示すことはできない。

たいていは気のせいだったり、動物かと思ったら積まれた洗濯物だったり、そんなものだ。

でも、まさに私がそう感じたのだという事実。それだけで十分ではないだろうか。