最近読んだ本

引用文献に挙げられていたので。
ベルクソンについての著作ISBN:4326153466でなかなか読みやすく、面白かった。

特に最近、ドゥルーズ哲学史的に読み解こうとする論文が増えてきた気がする。
とは言うものの、すでにずっと前からそういう状態で、僕が気づいたのが最近なだけなのかもしれないが。

理解できないのにその著作を翻訳で読んでいた学生時代の僕は「ポストモダン」とか「リゾーム」とか、そういうドゥルーズ的ジャルゴンに、そしてそういう難解な本を読んでいる自分に酔ってて、まさに「遅れてきた80年代」のようなダサさだったと思う。きっと。「アカデミズム打破!」みたいな。それはもっと古いか。

もちろん過去の自分のダサさを否定するとか無かったことにするとかそういうことじゃなくて、単純に「若かったなぁ」と思う。

しかし、今こうして読み返し、考えてみるとドゥルーズはかなり丁寧に哲学史的な概念を扱っている。

特にベルクソンからは多くのことを学び、自身の哲学を展開している。
ベルクソンの「持続」の概念や「生命の超躍」とか、そのあたりのことを踏まえずによく読んでその気になってたな、俺、って思った。そこのところがミソというか、一番面白いところなのに。

ドゥルーズを解説したものといえば、ポップとか資本主義とか軽さとかスキゾとか、中途半端に浅田彰を模倣したようなものばかりだったが、もうすぐ死後10年という今、その彼の哲学と真正面から向き合わなければならない時代がきた。

High and dry (はつ恋)

High and dry (はつ恋)

まだ新作の部類にはいるのだろうが、よしもとばななの本を読んだのは本当に久しぶり。
一時期、ちょっとついていけないようなものを感じて離れていたが、この本はすごく面白かった。
作者のスタンスとか、姿勢と言うものはその公式サイト上の日記などで日頃読んでいるので馴染みのあるものだし、共感する部分も多い。


しかし、そうした自分のスタンスのようなものを小説というかたちに作り上げていって不自然なものではないものにする力というのは本当にすごいと思う。

そういう部分でその作品が小説になるか、単なるエッセーになるかは紙一重だ。もちろん小説とエッセーの二分法がそもそも成立するかというのも問題だが、やはりよしもとばななが目指しているのはあくまで「小説」であろう。


なにか今、作者には書かなければならないと思うことがあって、それは日常の中の些細だが大事なこと、たとえば家族が一緒にいるとか、お父さんが切れた電球を替えてくれた記憶とか、それはそして、何よりも、まともである、ということである。

そして、もっと目をこらせば世界には、そして自分たちの内には、ささやかだけどまともで美しい出来事が溢れているということだ。

世界の外に、なにか絶対的な「まともさ」の基準のようなものあって、それにすがるのではない。

王国―その1 アンドロメダ・ハイツ―

王国―その1 アンドロメダ・ハイツ―

今読んでいる途中。

よしもとばなな公式サイト http://www.yoshimotobanana.com/index.html