昨夜イッキ読み。ページをめくる手が止まらなかった。

エミリー

エミリー

この本に納められた3篇はいずれもずっと僕の心に残る気がする。

嶽本野ばらの本を読んだのは初めてだが、はっきり言って、ありふれた言い方だけど、心を打たれた。

嶽本野ばら=ゴシック・ロリータあるいはパンクファッション、耽美、乙女、復古的文語体・・・そんなイメージがあったから、何となく今まで読もうかどうしようか、でもなんとなく気になったはいた。

物語自体は、暗い。救いが無いとも言えなくもない。

しかし、この本を先に読んだ妻の言葉を借りれば、明らかに「青春小説」であり、読んでいる最中に浮かび上がるかつての自分、言いたかったことと言えなかったこと、後悔、激憤・・・。

もちろん青春を謳歌せよとか、そういう説教臭さとは無縁の世界。そのような言説は俯瞰的な物言いでしかない。つまらん。

俯瞰的なつまらない物言いというものは、そのようなドン詰まり感のうちに身を置くことなど忘れて、振り返ってみて、現在の視点から過ぎ去った過去として再構成しているにすぎない。
そのとき過去とは「過去でしかない」ものとして、否定性においてとらえられているにすぎない。

もしかしたら自分も結局は平凡な人間の一人に過ぎないかもしれない。あるいは、いやきっと、おそらく、そうであろう。
でも、平凡で普通で地味なはずなのに、他の自分と同じはずの普通の人たち、家庭や学校の中に自分の居場所もなく、疎外感に痛めつけられる。先が見えない。現実に、確かに、自分を異物として排除しようとし、規範にそって整形しようとする何者かがのっぺりと立ちふさがる。

嶽本野ばらの「乙女性」(そんなものがあればの話だが)とは、自らがそうであるところのものになるための戦略であり、戦いの場なのではないだろうか。

マッチョな男的価値でもなく、女的価値(実は男的価値を内面化したセクシャリティでしかないとしたら、両者は同一物の裏表ということになろう)でもなく、むしろそのあいだを生きる。

そんなことが可能なものなのかわからない。

いや、両者の「あいだ」と言うことも問題で、その時点ですでにこの2つの価値観を前提にしてしまっていることになる。



・・・うーん、考えているうちによく分からなくなってきた。

でも、すごく良い本だったことだけは確かだ。

逃げの常套手段として、ふと思い出した文章を引用して、去る。

・・・それに対してドゥルーズには「女性的な」未組織性、非組織性への挺身が認められる。或いは「女性-カオス-自然」といった凡庸な図式が邪魔であるなら、より正確に言えば、ドゥルーズには「男性的組織」とも「女性的組織」とも異質な「少女的明晰さ」、その「明晰さにおける非組織化」への挺身がある、或いは要するに「男性」と「女性」の間、ゴダール風に「男性/女性」と口にするべきかもしれない場所への挺身がある。そこには絶対的に「我を失うような場所」への無邪気な挺身はないが、「我」が「我」であるかどうかどちらでもいいような、我の弛緩に似た緊迫、緊迫に似た弛緩の場所への称揚がある(我を絶対的に失う場所はドゥルーズにおいても死、であり、そして彼はそれを拒絶する・・・ここでも重要なのはスピノザの第三種認識といったものであるだろう・・・)。
              

               丹生谷貴志ドゥルーズ・映画・フーコーISBN:4791754638