今日、丹生谷貴志の別の本を読んでいたら、自分で下線を引いた部分にブチ当たった。

「帝国」のやり口は、まさにヘーゲルが指摘するように、すべてが終わった後から語りだすという点にある。笑い話にもならないが、かつてのわたしの愚劣な教師だった一人は、長髪の生徒に憤怒の形相でこう口にした。「どうせいつか禿げるのに何故髪を伸ばすのか?」。同じことだ。「いつか死ぬのに」「いつか老いるのに」「いつか醒め飽き果てるのに」「いつか腐敗するのに」等々等々、同じことなのだ。

(中略)

「我々はすべて死す、それが運命である」・・・・もっともらしい詐欺!それは「死ぬまでは生きている」というスピノチスムの素朴といえば素朴な宣言を、「現在を過去形で語る」ことによって不当に無化しようとする詐欺の手口にほかならない。

そういえば、この本を初めて読んだ日も、確か今ごろの季節、寒くて薄暗い冬の日。最後に鍵を閉めなければならないからという理由で僕一人が仕事場に残っていたとき。受付カウンターのところの電灯だけが灯る仕事場で、その小さな灯りの下で読んだ。
本の終わりのほうにこうも書いてあった。

「書くこと」、或いは彷徨い、自失し、なにはともかく「書くこと」。「書くこと」をしない思考はいくらでも自らの怠惰を許し慰め、弁明し続けるだろう。

何だか、厳しいな・・・。