丸善で妻が買った本。

ドリトル先生アフリカゆき (岩波少年文庫 (021))

ドリトル先生アフリカゆき (岩波少年文庫 (021))

最近、すっかり庄野潤三化している妻が、『ピアノの音』の中でこの本に触れられているところを読んで、思わず児童書コーナーへ直行。即購入。
ピアノの音 (講談社文芸文庫)

ピアノの音 (講談社文芸文庫)

思えば、書店でふと見かけた『庭のつるばら』を、表紙の雰囲気と、『庭のつるばら』という語の響きがいいなあと思って購入したのがきっかけとなったわれわれ夫婦の「庄野潤三ワールド」。

庭のつるばら (新潮文庫)

庭のつるばら (新潮文庫)

その後、『貝がらと海の音』、『せきれい』そして『ピアノの音』へと読みすすめる妻。
貝がらと海の音 (新潮文庫)

貝がらと海の音 (新潮文庫)

せきれい (文春文庫)

せきれい (文春文庫)

この一連の作品の素晴らしさは、新・読前読後(id:kanetaku:20050123)さんが述べておられるように、日々の出来事を淡々とだが、味わい深く、しかし、それが単なる幸福な家族ののろけ話に弛緩することなく描いているところにある。

しかも他人の悪口は皆無だといっていい。

庄野潤三自身も、ku:nelの2002年11月号のインタビューで次のように述べている。

人間が生きていく以上、不愉快なことにも出会うわけですけど、それを大きく取り上げない。それを無視したいという気持ちがあるわけですね。それから、人間は必ず死ぬものですけれども、死ぬってことも考えちゃいけないと、自分に言い聞かせているんですよ。自分が死んだら、家族はどうなるんだろうとか、お葬式はどうかなんてことはね、考えないようにしている。ありがとうと言えるような事柄が、毎日起こることだけを期待しているわけですね。

ぬるい?もちろんそう思う人もいるだろう。

だが、この点は新・読前読後(id:kanetaku:20050123)さんのところでも触れられているのだが、悪いことを思わないようにするとか、死を思わないようにするとか、人の悪口を言わないとか、そのためにはおそらく恐ろしいほど強靭な精神がそこにはきっと必要だ。

ただ(これから先に書くことは自戒も含めてのことなのだが)、それはちょっと前に流行った「ポジティヴ思考」とか、「自然なままで」とか、そういうぬるい言説とは全然違う次元のものだ。

それというのも、『庭のつるばら』の後、初期の短編『プールサイド小景ISBN:4101139016ちょっとびっくりしたからだ。

もちろん、一緒に収録された作品からは後年の連作群を予想させるものも無くは無いが、『プールサイド小景』を読み終わった後の、あの得体の知れない感触はなかなか忘れられない。

どうして『プールサイド小景』のような作品を書いた人が『庭のつるばら』のような作品を書いたのかよく分からないし、上手く説明できないという気持ちは今でも残っている。

恥ずかしながら白状するが、このブログをはじめるきっかけも実は庄野潤三の『庭のつるばら』を読んで、自分もこんな風に日々の暮らしを淡々と書いてみたいなあと思う気持ちがどこかにあったからだ。

しかし、というかあたりまえだが、そんなことは僕は庄野潤三じゃないから不可能なのだ。

すこし前に書いた日記(id:sniff:20050122)と言う事が重なるが、ファンであるという理由だけで自己肯定かつ対象へ同化することは危険を伴う気がする。「あ、これでいいんだ」と思ってしまう。

どんなに頑張っても、現在の自分は将来に対して不安になるし、死ぬのが怖いと思ってしまうし、人の悪口を言って、なおかつ言われていないことまで言われた気になって憎悪を自己増幅させてダークにヒートアップしてしまう。

じゃあ、やっぱり庄野潤三はぬるいのか?いや、そうじゃない。
月並みな表現だが、或る過程を経たからこそ、くぐり抜けて来たからこそ、庄野潤三庄野潤三なのだ。

庄野潤三はインタビューで嫌なことは考えないようにする語っているが、死を、不安を考えないことと、死や不安が存在しなくなるということはまったく別の話だ。
むしろ、日常のふとした瞬間に死の影、不安の影を感じるからこそ、考えないでおくということも可能なのではないだろうか。
そこに不安が存在するからこそ、それを書かないということも可能のではないだろうか。

そして、庄野潤三の世界はそのような危ういバランスを密かに孕んでいるからこそ、感動的であり美しいのではないだろうか。