知人から譲ってもらったスピーカーを使い出してからというもの、今まで棚のコヤシだったCDたちが「おおっ!こんなにカッコ良かったのか!」「こ、こんな音が!」と、かなりルネサンス

特に先日買ったカラヤンのDVDを観て以来、そのビジュアルイメージがよりよい形で補完されたからか、カラヤンのCDがものすごく想像力をかきたてるというか、現実感や立体感を感じる。

SYMPHONIE NR.9 D MOLL OP.

SYMPHONIE NR.9 D MOLL OP.

このカラヤンの70年代録音も今までのオーディオ・セットで聴いているときは何だかよくわからないなあと思っていたが、新スピーカーの威力もあってか、今日はかなり感動した。

もちろんCDなので音しか聞こえない。

でも、音楽と映像っというのは、妄想かもしれないけど根源的な次元では絡み合っていて、言葉で書いてしまうと一方が「音」で他方が「映像」と区別されてしまうものだけど本当は区別されないぐらいに密着しているもではないだろうか。


それはたとえば「音と映像の融合」という言い方すらも融合と言うこと自体がすでに分離した二種類以上のものの存在を前提にしているから嘘になってしまうような絡み合いだ。


だから、音楽の音だけ聞いている状態というのは、例えば特別な部屋に入れられて、はい、雑音や余計なものは気にしなくていいですからね、音に集中してください、と言われてる状態に近いのかもしれない。


それは何か、ちょっとした部分を損していることになるのだろうか。


でも、書いていて思ったのだが、こうした「(純粋に)音だけ聞く」というその想定自体が嘘だろう。

なぜなら、例えば今日の僕は二日酔い気味だし、あるいは、ある時ほのかに憎しみを抱いたり、そんなふうに、純粋状態なんて不可能だからだ。


あるいは音楽が記憶を勝手にズルズルと引っ張り出してきて頭がグルグルしたり、そんなふうにして音楽とも映像とも心象とも言えない様な、いろんな感覚が組み合わされたブロック(そこには自分の肉とか血も含まれる)みたいなものがゴロゴロ転りだすことのほうが普通ではないだろうか。

もちろん、いつもそんなに調子よくゴロゴロ転がってくれるとは限らないが、大好きな音楽を聴いているときはきっと転がってくれているのだろう。


だから音しかないというのは損かどうかという問いもまたあまり意味は無いのかもしれない。

この場合の損か損ではないかというのは結局、ナマでライヴを見ることに意味があるかと問われればそりゃ見たほうが良いに決まってるよと答えれられる程度のレベルの問題でしかない。

でも、そういう問題圏では、ライヴをナマで見たとか、自分も音楽やってるからとか、そういう経験値がヘンにハバを利かせそうで、なんかヤだな。


もちろんそういう側面も大事だけど、でもそういう経験値重視ってどうなんだろ。カラヤンにしろ、誰にしろ、もう死んじゃってる人のライヴなんか誰も聞きに行けないし。

だからもっと大事なのはそれがたとえCDという記録媒体を通してでしかないとしても、「えらいもの見ちゃったな・・・」とか、知っていたはずなのに、その知っていたということを知らなかったことに気づかされる経験とか、時間が澱んだり逆流したり飛び越えたりする疾走感とか、そういうそれぞれの人にとっての特別な濃さみたいなものであって・・・うーん・・・バタッ(倒れた音)。




夕飯の後、コーヒーを飲んだり本を読みながら、今もかなりリピート。

戦場のメリー・クリスマス

戦場のメリー・クリスマス

このアルバムの最後に納められた“Forbidden Colours (禁じられた色彩)”という曲名は三島由紀夫の『禁色』に由来しているというのをどこかで読んだ気がするが、これも妄想かもしれない。