sniff2005-02-23

きのう、夕飯の買い物のあと、スーパー内の書籍コーナーでよしもとばななのインタビューが載っている雑誌を立ち読みした。

よしもとばななが「トップランナー」で言っていたことと重なる部分もあったが、自分にとっても大事だなと思ったことが書いてあった。

書くこと、とくにキーボードを使って書くときというのは、時に思考のスピードよりも手のスピードのほうが早いときがある。

だから、手の勢いで数千、数万字あっという間に書いてしまうときがあるが、これは実は危険だったりする。

たくさん書いたからという理由だけで、ものすごくいいものを書いた気になってしまうし、スラスラ書いてしまうと、思ってもいないことを書いてしまう。つまり、本当はもっと別のことを書こうとしていたのに、スピードのせいで決まりきった表現や慣用的な言い方に安易に寄りかかってしまう。たしかに綺麗にまとまるかもしれないが、果たして、それが本当に自分が書こうとしていたものなのだろうか。

・・・みたいなことが書いてあった(気がする・・・うろ覚え)。

それは身体から発生する身体的思考だといえばカッコイイが、そういう身体的って、別の面からみればあまりに楽観的すぎないだろうか。

手が動くままにスラスラ、パタパタ、文章が出来上がっていく・・・。どこに問題があるのだろう?妙に考えすぎの頭デッカチな文章よりそっちのほうが全然イイんじゃない?

実際、何度も書き直したものよりも、最初にイッキに書いたもののほうが自分の言いたいいことがはっきりしている経験ってだれでもあるんじゃないだろうか。

でも、もっと先に進むためには、いつもそれだけっていうんじゃ駄目というか、いつか限界がきちゃうんじゃないだろうか。


手が勝手に動くままに書くものというのは、多分に制度化されたものではないだろうか。われわれの身体というのはわれわれが思っている以上に常識とか、「これはこうあるべきだ」ということがインプットされているものではないだろうか。

言い澱みとか、「あー、これなんて言えばいいのかな」とか、「もっとわかりやすく言うと何なのかなー」ってキーボードの上で手が立ち止まったりっていう躓きのプロセスというか、センスじゃなくて筋力でエイッと持ち上げるような感じが必要となってくるんじゃないだろうか。

確かに、自動書記とか無意識の流出とか、そういうこともあるのかもしれないが、最初からそんなものに頼ってはいかんだろうと言う気もする。


よしもとばななはインタビューで、日々書き続けること、プラクティスとしての書くことについても触れていた。

もちろん、よしもとばななは、作家なので/あるいはそうであるから作家でもあるのだが、書くことと生きることが緊密に重なりあっているので、僕にとっては日々書き続けることが訓練的な意味合いを帯びることがあっても、よしもとばななにとっては実践/訓練という線引きは意味が無いのかもしれない。

でも、「う〜ん、確かに毎日なにか書くことって、筋トレとかピアノの練習と一緒でやっぱ必要かも・・・。」と言ったら、妻に「でも毎日書いたら慣れてきて駄文書いちゃったりしない?よっぽど気をつけてないと。」というようなことを言われた。


この日記のこと?