このところ妻と山岸涼子の『日出処の天子』を競って再読。
今さらながら絵の力というもの(別にデッサンがどうのこうのという話ではなくて、疫病をもたらす死神の描写や、厩戸王子の力や絶望の描写など)に愕然としてしまう。

そして、切ない物語にまた引き込まれてしまう。妻と2人して「あー」、「うおー」と物語の進行に一喜一憂。




人に本を貸してくれないかと頼まれた。
それは全然問題ないんだけど、そう言われるとその本がどんな本だったか気になってちょっと再読。

われわれは、事物を知覚し、事物に関して互いに理解しあい、事物のなかでしっかり結び合わされている。そして、「自然」というこの礎石のうえに、われわれはさまざまさ科学を築きあげているのだ。セザンヌが描こうとしたのは、このような根源的世界にほかならぬ。・・・セザンヌはけっして「野蛮人のごとく描こう」としたのではなく、知性や観念や科学や遠近法や伝統を、それが理解するべく定められている自然的世界にふたたび接触させ、彼流にいえば「自然から生まれ出た」諸科学を自然と対決させようとしたのである。

M.メルロ=ポンティセザンヌの疑惑」(P.16)より

意味と無意味

意味と無意味

ここに書かれているようなことは社会学者や科学者美術評論家から見ればなんとも馬鹿げた楽天的なことかもしれない。
彼らは自然や世界や作品を測量し、観察し、記述し、操作することはあっても、自分たちのそうした行為が実はそうしたものに基礎づけられているなんて考えもしないし、「もしそうだとしても、だから何?」と彼らは言うだろう。

たしかに、彼らの好きな最新の理論だとかポストモダンとかお洒落な固有名詞やビジネスの最先端とかそういう路線にくらべれば地味だけど、そうじゃない路線のほうが、多少険しそうでも、ずっと味がある気がするのだが。