内なるダークサイドと戦うのじゃ。

最近、何か書くと人の悪口になってしまう毒吐きカンガルーあるいはブラック・カンガルーだ。

今、ある意味、気になっているブログがある。「僕はこんな有名人と知り合いで〜す」というその基調トーンは「ギョーカイ人」(古っ!)だから、まぁ、しょうがない。

まあ、こういう場合、知り合いだと思っているのは本人だけだと相場は決まっているから、それはそれでよしとしよう、っていうか勝手に言ってろ。

それよりも、今どき、「男子2人、女子一人でドリカム状態です。エヘッ。」っていうのはさすがにイタイだろ。


しかし、個人的にどうしても気になることがある。

それは何かというと、どうもこの人物とは学生時代の研究分野とかテーマとか、研究対象周辺の人名とか、そこらへんの具合がかなり自分と重なっていることだ。(でもそれだけに、できれば、コイツの口から「哲学」という言葉は聞きたくない。)


でも、冷静に考えてみると、それはこの人物と自分が、ある意味では「近い」ということを意味しているのではないだろうか。下手をしたら自分もこの人物のような人間になっていたという可能性も無くは無いのではないかという思いがムクムクと頭をもたげて来る。

この場合は「無くて七癖」というか、「人の振り見てわが身を直せ」というか、どうも、他人事には思えない複雑な心境だ。


少し前、散々いわゆる「正論」を振り回してまわりをかき回したあげく、結局その人の言いたかったことは「俺の立場はどうなるんだ」「俺に恥をかかせるな」ということだった、という事件があった。

でもそのキチガイ先輩がそういう風に思っていることは最初から何となく分っていた。「一致団結」とか「将来を見据えて」とか、そういう偉そうな言葉の一つ一つに、その人の虚栄心や自己愛が潜んでいるのが分った。それもまるで手に取るように分った。

逆に言えば、こういうある種の「黒いもの」は僕の中にも確実に潜んでいるのであり、だからこそ、そこに参照関係が成立し、その結果、このキチガイ先輩が「何を考えているのか」が分ったのではないだろうか。

性善説とか性悪説とかそういう単純な話はこの際どうでも良くて、生きるということは自分の中の「黒いもの」(村上春樹ならそれを「やみくろ」と呼ぶだろうもの)との戦いなのかもしれない。