音楽

最近、小田和正の偉大さを妻と語り合うことがある。
別にライヴにいくほど熱烈にファンではないのだが、最近アルバムが発売されたこともあってラジオなどで歌を聴くことが多いからだ。

「ずっとそばにいるから」「ずっと待っているから」というセリフは、言う人にもよるが、誰に言われるかによってはかなりキモい。

たとえばこれが福山雅治だとか、よくわからん若手のミュージシャンの歌だったりすると「ケッ、心こもってないなあ」と思う気がする。

でも小田和正が歌うとなんだか説得力がある。

もちろん、「ずっとそばにいるから」なんていう歌詞を持つ歌はおそらくいままでもたくさんあったのだろうし、今でもそういう歌はたくさんあるのだろう。

でも、ある創作者の手持ちの言葉が、たとえそれが特別難解なことを言っているのでもなく、一見ありふれたものに見えても、ある配合や記述の仕方で信じられないくらい新しい意味の世界を開くことがある気がする。

村上春樹は、小説を書くとき一度細部まで書き込んでおいて、決定稿ではそういう細部の書き込みをあえて消すことがあるのだけれど、むしろ大事なのはそういう書かれていない部分、見えない部分だということを何かのエッセイで書いていた。
何が書かれてあるかということと、何を書こうとしたかということは、後者が事実上見えないものだとしても切り離すことはできないだろう。そのあたりを手を抜くと(けっこう自分でも手を抜いてしまうんだけど)、てきめんに伝わってしまう。

「ずっとそばにいるから」というこの一言も、一見簡単そうだけれど、小田和正が書く場合にはそれまでに堆積された膨大な「小田ワールド」から選び出され、そこには見えないんだけど、そうした個人の蓄積した世界観と密接につながっているから、「なんかいいなあ」と思ってしまうのかもしれない。


もちろん、小田和正の場合、さらにあの声も重要なファクターだ。
歌詞とか声は、この場合、「小田和正の考えていること」を表現する外的な標識ではないだろう。

声は空気中の振動として、直接物理的にわれわれに作用してくる。
でもそれは単なる物理的な振動ではない。小田和正本人の身体から発せられ、そして僕らの身体に直接響いてくるものだ。

でもまさに何かが「響く」ということはそういうことではないだろうか。
その背後の「声やメッセージの送り主」はどうでもよくなる。

「どうでもよくなる」というのはちょっと正確じゃない気がする。

そういえばスティーヴン・キングが何かの本で「文章はテレパシーだ」と書いていたが、例えば、一見するとどんなに心が広い、「はー。僕は何も言うことはありません」と思わされてしまう模範的なことが書かれてあっても、その人のキチガイ具合が伝わってきて(その場合は書いてある内容もだけど改行の少なさとか変換ミスとか、そういう表層的なことも重要なファクターだ)凍りつくことがある。

上手く言えないんだけど、むしろ、そういう「声やメッセージの送り主」の内面とか、強さ、弱さも含めて僕らはその表現の中にすでに言葉にならないものとして内在したそれらをきっと感受しているのだと思う。


きのう吉田秀和の『私の好きな曲』を読んでいたら聴きたくなってきた。

バッハ:ミサ曲ロ短調(全曲)

バッハ:ミサ曲ロ短調(全曲)

そういえば卒論を書いているころ、よくこのCDを小さな音量で流しながら書いていた。

今になって思えばミサ曲をかけながらニーチェの『アンチクリスト』がどうのこうの・・・っつうのもどうかと思うが。