音楽

バッハ:ゴールドベルク変奏曲

バッハ:ゴールドベルク変奏曲

なにやら最近「グールドの再来」あるいは「ポスト・グールド」と呼ばれている若者らしい。四半世紀も前に死んだ人に比べられるというのも、なかなか大変そうな気もするが、それだけグールド自体がまだまだ大きな存在であるということだろうか。
このところいろんなところでこの名前を目にするものだから、気になって昨日タワー・レコードで購入。さっそく聞いてみる。
確かに、ノン・レガートでクリアな音の心地よさ、スピード感、そして何よりもデビュー盤に「ゴールドベルク変奏曲」を選んだあたりは、グールド云々と言われてもしかたない気がするが、浮かび上がる世界はずいぶん違うように思った。グールド盤(81年のほう)を聴くといつも真っ白な空間、それは部屋の中であったり、あるいは雪の中であったりするのだが、そんな無色彩の空間がイメージとして現われてくる。ときどきそれはグレーだったりする。でもそんなふうに色彩がないように見えても、じつはその背後にさまざまな色彩を隠し持った白やグレーだったりするのだが、とにかく、何か奥へ奥へと(何の奥だ?)求心的に向かっていく心持になる。
もちろんそんな心がキュ〜っとなる感覚が心地よくもあり、グールドの演奏の魅力の一つでもあるのだろうが、シュタットフェルトの「ゴールドベルク変奏曲」はタッチこそグールドのように硬質で聴いていて心地いいのだが、もっと開放的な音楽だ。青い空がスコーンと抜けるような清々しさがある。ときにはグールド以上のスピードで駆け抜けるが、ときにはグールド以上にゆっくりと、踏みしめるように進んでいく。
ただ、これはもうグールド盤を聴きなれているからかもしれないが(なにしろ18の頃から聴いているのだ)、あくまで僕の好みという点で言えば、あまりにクリアな演奏であるためにすこし平板な印象を受けた。あまりにも緻密かつ精緻な設計図によってその透明性は保証されてはいるが、何かしら、グールドのちょっとネクラな音の響きが恋しくなる。これはあくまで個人的な意見だが、グールド盤に聴かれるような、右手と左手の掛け合い、特に左手で弾かれる音の強靭さとグルーヴ感というものが逆に凄いものなのだな、と思った。あと、どうでもいいことかもしれないが、録音に混じってしまったグールドのあのうなり声や、鼻歌(アルバムによっては椅子のきしむ音)がもたらす身体感覚もまた魅力の一つなのだろうと思う。
でも、なんだかんだ言っても、やっぱり好きですよ。このシュタットフェルト盤。グールドにはグールドの、シュタットフェルトにはシュタットフェルトの世界があるのだし、どっちが勝ちか?負けか?というジャッジを下すことにそんなに意味は無いと思う。それまで気づかなかったことに気づいたり、新しい世界を知ったり、きっとそんなことのほうが大事なことなのだと思う。村上春樹の本にこんなことが書いてあった。

思うのだけれど、クラシック音楽を聴く喜びのひとつは、自分なりのいくつかの名曲を持ち、自分なりの何人かの名演奏家を持つことにあるのではないだろうか。それは場合によっては、世間の評判とは合致しないかもしれない。でもそのような「自分だけの引き出し」をもつことによって、その人の音楽世界は独自の広がりを持ち、深みを持つようになっていくはずだ。(p.76)

意味がなければスイングはない

意味がなければスイングはない

「自分だけの引き出し」が必要なのは音楽に関してだけではないだろうし、この「自分だけの引き出し」の無さに悩むのもまた事実である。僕の場合は。

でも、このマルティン・シュタットフェルト君は1980年生まれということは、25歳。アマゾンに写真がないので残念だが、なかなかオシャレでハンサムそうな(?)若者です。きっと誰かみたいに左右別々の靴下を履いたり、夏でもコートにマフラーを着用・・・なんてことはなさそうです。