あまり時事ネタというのは苦手なのだけれど、宮崎勤の死刑が執行された。ここ数日、僕にしてはめずらしくワイドショーやニュースなどを巡回しながら、今世の中がこのことについてどう思っているのかということを確かめようとしたが、特にこれといったものはなかった。あっけにとられたとか、再審準備してたのに何考えてんだとか、死刑廃止とか維持とか、結局そういう対立の図式の中で語られてしまって、この男が死んだ、世の中から消えた、というそのこと自体について語っているひとは少ないように思えた。

ちょうど僕が中学生の頃で、事件の経過も、報道も、もちろん彼の部屋のビデオや漫画本の映像も(あれはマスコミがわざとああいうふうに乱雑にしたとか、警察の調査のあとだっらから特別乱雑だったとか、当時からいろんな噂がながれた。)、逮捕のニュースも、彼の自宅から家族が消え、父親が自殺し、自宅があった土地も更地になってしまった映像もみた。更地になった映像はずっと後になってからだったかもしれない。

もちろん、現時点における結果論として、僕は彼のようにはならなかったし、彼のような犯罪も犯さなかった。確かにあの部屋の映像にはちょっとビビッたが、その頃の年齢の中学男子によくあるように、人並みにマンガやアニメが大好きで、「天空の城ラピュタ」のビデオを何度も観るような子どもだった自分がそういう方向にいかなかったのは、原因はよくわからない*1。ふつうは行かないんだと言われればそれまでだが、もしかしたら、たまたま運が良かっただけなのかもしれない。何をもって運が良い、悪いと言えるのかは、一考を要するが。

もちろん、彼の行なったことは許されることではない。万死に値する、と言われればそれはそうだと、反論の余地もない。もちろんここで死刑廃止か維持かという議論をするつもりはない。

でも、正直、彼の死刑執行のニュースを見て、何かが終わった、失われた、と思った。このポッカリ感は何だろう?

繰り返すが彼の行いは決して許されるべきではない。でも、彼の死とともに、多くのことが「なかったこと」にされてしまった気がした。僕の暗くて地味な、今風な言葉でいうと「非モテ」な中学生時代(厳密には中学時代にかぎらないが)のすべても含めて、いろんなことがなかったことにされてしまった気がした。

いつか、ぼっちゃんが「宮崎勤って誰?宮崎駿とちがうの?親戚?」と聞いてきたとき、事実の経過はもちろんのこと、いま感じている感情を、もうすこし上手に話せたらいいなと思う。でも今のところ、モヤモヤのまま。

*1:ちなみに中3のとき、校内コンクールにおける僕のクラスの自由曲はラピュタのエンディング曲「君をのせて」だった。しかも優勝した。でも、それにしようと言ったのは僕ではない。あの頃はなんだかそういうアニメ好きな雰囲気って、それほど奇異なではなかったのではないだろうか。あくまで個人的な経験からの話だが。