3月28.29日の長崎旅行を挟んで、流れに流れて流される日々。先日ガードマン転身が決定したばかりだが、話せば長くなるが事情が変わって、履歴書も流れ流れて、ハローワークに行ったり面接を受けたり、そしてこれまた平たく言うと地元の観光協会で働くことになった。ザ・ガードマンならぬザ・サラリーマン(バイト)だ。レジ打ちから駐車場の掃除、高いところの電球換え、売上の集計やマーケティング。ともかく汚れ仕事も雑用もぜんぶ仕事だ。ただし、汚れ仕事といっても、まんじゅうの箱を二重底にして小判を入れるようなことはないと思う。
しかし、そもそもマーケティングって言葉の定義自体知らない。っていうか、このご時世、うちで働いてみないかと声をかけてくれて雇ってくれるのはほんとうにありがたいのだけれども、本当にホッチキスなんかでいいのだろうか?
今回声をかけてくれた人とは知らない間柄ではない。ときどき町営グラウンドで会うことがある。それにしても走っている僕のことしかしらないはずだ。僕の奥さんの仕事振り(の良さ)を知っていて、そのうえで「夫のホッチキスもなんか面白そうな奴だと思っていた」というのが今回僕を推してくれた決め手らしい。大事な物事の99パーセントは偶然と誤解との複雑な混合物だ、と昔の人が言った。というのは嘘だ。いま僕が勝手に作った格言だ。
いままで数年間のサラリーマン生活と研究生活しか知らないうえに、地元の人間でもない僕に声をかけてくれて、重役の人達を説得して僕を職員に推してくれたこの人の期待に答えるためにも、そして、何より生活のためにも、4月からは久しぶりに「勤め人モード」ONでいきます。
あと、これからは仕事と学業の両立が大事だ。すでに9月の学会発表もエントリー済み(こちらはたぶん政治論的な話になると思う。政治論三部作の第一作になる予感)だし、11月の全国学会のエントリー募集も始まっている。何より、博士論文だ。

「生活のため」と書いたが、もし将来、この文章を子ども達が読むようなことがあったときの為に一言書いておく。確かに僕はこれまで、何らかの研究職を得て、いわば研究者としてひとり立ちするためにいろいろとやってきた。
だから、今回の僕の選択は、そういう目的があるにもかかわらず、まったくそういう目的と関係ないことをやろうとしていることになる。あるひとはそれを挫折とか堕落とか妥協と呼ぶかもしれない。多少とも好意的な人は「子どものために」生活を選んだ、と言ってくれるかもしれない。しかし、いずれも僕の場合はあてはならない。
「子どものために○○を犠牲にした/するべきだ」と言う大人は嫌いである。「お前のために私は○○を犠牲にした」とわざわざ言う大人に関しては腐っているとすら思っている。もちろん、何らかの犠牲を余儀なくされることはある。もしかしたら生きることそのものが何を犠牲にし、何を選ぶかという決断の連続かもしれない。しかし、最終的に何を犠牲にし、何を選ぶか、その決断を下したのは大人本人だ。子どもは関係ない。
何を言いたいかというと、僕の子どもたちは今回の僕の選択について「自分たちの為に我慢したんだな」とか「自分の夢を犠牲にしたんだな」とかそんなことを思わなくてもいい、ということだ。誰も何も犠牲になどしていない。ただこの時点で最良と思われる選択をしただけだ。研究をやめるなど、一言も言っていないのだから。