ついに非常勤講師も今週で終了。4月半ばから15週、サラリーマン稼業との両立で死にそうなときもありましたが、なんとか持ちこたえました(笑)。

自分は研究を仕事にできたらいいなぁと思うことはあっても、教師とか人にものを教えるとか、そういう教育的立場に立つことが自分に向いているとははっきり言って思っていなかった。今も自分が教育者かと自問すると、いや、それはちょっと、と否定的な答えしか出てこない。いや、はっきり言おう。自分は教育者には向いていない。

勉強するということは、基本的にはインプット作業だと思う。特に人文系分野はその傾向が多いと思う。それに対してアウトプット作業はというと、論文発表や学会発表ということになるのであろうが、「教える」という行為も十分にアウトプット作業であると思う。

自分がこれまで吸収してきた情報を単純にアウトプットする・・・なんて単純なものではなかった。倉庫の大掃除・大整理にも似た大掛かりな情報の再構成、再確認が必要とされた。業界ではもはや説明もなしに流通するある用語を、この業界に入ってきたばかりの人に、ついこのあいだまで高校生だった学生に、歴史的背景も含めてどれだけわかりやすく説明するか・・・。業界向けの学会発表や論文書きだけを続けていたら、こんなことを考えこともなかったのではないだろうか。

こういうことを言うと、「学問にビジネス視点を持ち込むな!」と怒られそうだが、それでも僕は、学生は「顧客」だと思って授業を進めてきた。その授業において、だれが一番満足を得なければならないか?無論、学生だ。それはうどん屋と一緒だ。客がうどん屋店員に奉仕するうどん屋など、それはもううどん屋ではないであろう。

ただし、それはレベルを下げることでも、学生に媚びることでもない。幸いなことに、僕の授業に集まった全員が、かなり優秀な部類に入る生徒だった。だからレベルを下げる必要は無い。あとは、どれだけ彼らの「学び」への欲求を(「教えてもらうこと」への欲求ではなくて)持続させるか、教師が邪魔をしないかが問題だった。

今、何も考えずに「教師が邪魔をしない」と書いたが、この点は、実はとても大事なのではないかという気がする。これまでの人生を振り返って、「学び」の喜びを教えてくれたのは確かに「教師」と呼ばれるひとたちだったが、逆にこちら側の「学び」を抑圧してきたのも「教師」と呼ばれる人たちではなかったろうか。前者のような人たちばかりに出会う人生はおそらく幸せである。しかし、そんな幸せな人生はなかなか常人には訪れない。特に僕のような凡庸な人生においては。

では具体的に「教師が邪魔をする」とはどういうことか。答えは意外と簡単な気がする。それは「無理に教える」ことと「学生の意見を聞かない」ということだろう。この二つはコインの裏表で、実は同じことなのだが、結局のところ、「学び」が成立するには、教師と学生のインタープレイ、反転しつづけるボケとツッコミが必要なのではないだろうか。

授業中は僕が話している途中でも、いつでも学生が口をはさめる雰囲気づくりに努めた。思えば、こういう雰囲気作りと信頼関係の構築に終始した気もしないではないが、それはいまさら言ってもしかたがない。

そこで出た意見や質問は、想定内のものもあったが、まったく予想外のものもあって、人というのものはほんとうにいろいろなことを考えるのだな、と思った。

教えるという経験を通じて、これまで学んできたこと、読んできた本、考えてきたことの意味がやっとわかった気がする。謙遜ではなく、ほんとうに「わかった気がする」という程度だが・・・。

これから書きたいもの、書かなければならないものも見えてきた気がする。願わくば、また彼らと出会うことができたときに、彼らを失望させるような真似だけはしたくないと心から思う。だから、今まで以上に勉強しなければ、と思う。

というわけで、昨日は打ち上げ。打ち上げとかいって誰も来てくれなかったらどうしよう・・・と思ったけど、ほぼ全員参加してくれて良かった・・・。4月のときはお互いよそよそしかった学生同士がみんな酒飲みながら打ち解けて話しているのをみて、さらにホッとした。

専門用語を使わずに、とても噛み砕いて話をしてくれたのがよかった、とか、現代的な問題(脳とかアートとか)と絡めて話してくれたのが良かったとか、こんなに話を聞いてくれる先生ははじめてだったとか、また教えに来てくださいとか、いろいろうれしいこと言ってくれてありがとう。気を使って言ってくれたとしてもうれしいです。拙い授業でところどころボロボロで、雑談だけで終わったりした回もあったりして、申し訳ないという思いもいっぱいです。ほんとうにありがとう。そして前期お疲れ様でした。