台風の影響で昨日からすごい風。なんど玄関のドアが風で開いたかわからない。
ほんとうは妹夫婦が昨日から屋久島に行く予定だったのだが、船はすべて運休だったらしい。今朝、だめもとで鹿児島港まで行ってみるというメールがきたが、どうなっただろうか。

今年の夏はやたらと推理小説を読んだ。

λに歯がない λ HAS NO TEETH (講談社文庫)

λに歯がない λ HAS NO TEETH (講談社文庫)

今はもうない (講談社文庫)

今はもうない (講談社文庫)

τになるまで待って PLEASE STAY UNTIL τ (講談社文庫)

τになるまで待って PLEASE STAY UNTIL τ (講談社文庫)

εに誓って SWEARING ON SOLEMN ε (講談社文庫)

εに誓って SWEARING ON SOLEMN ε (講談社文庫)

タイトルが似ているので読んだ順番はもうよくわからないが、『λに歯がない』は『すべてがFになる』を補完する意味で、というか、二つの作品がうまく共鳴するという意味で、自分にとっては印象的だった。

すべてがFになる』で有名な一節、

「そもそも、生きていることの方が異常なのです」四季は微笑んだ。「死んでいることが本来である。生きているというのは、そうですね・・・、機械が故障しているような状態。生命なんてバグですものね」(P.495)

個人的には、ここまで悟りきった境地に至れる自信はないが、森作品を貫く「生命/死」の概念が『λに歯がない』では強く繰り返されている。

なにものにも影響しない。なにも変化しない。自然の摂理に逆らっていた。そう、たとえば、水の流れにときどき生まれる渦のようなものかしら。あっという間に、跡形もなく消えてしまう。もともと、そんなのもは、ものとして存在しなかったのよ。ほんの少しの、何かの加減で、ひとときだけ現われた渦。そこに光がたまたまあたっていたから、一瞬だけほんの僅かに光ってみえただけのこと。泡の一つも巻き込んだかもしれないけれど、それだって、すぐに、ほら、もとどおり。なにもなかったのと同じでしょう?(p.212)

昔、ハイデガーの存在の問いやニーチェ永劫回帰を読んだときに抱いた思いを思い出した。すべては「存在」のうねりのなかにあらわれた襞やくぼみのようなもの。それがどんなに実存だろうが自我だろうがさけんだところで、生成変化するうねりのなかで、それらはいつしか飲み込まれ、消えていく。存在それ自体に何か目的がるわけではない。別に実存やら私やらを消してしまうなんて思っているわけではない。ただ、うごめき、その中にあらわれたものがふたたびその中に消えていくだけ。生にも、死にも意味がない。

では、なぜ生きているのか?わからない。「なぜ生きるのか」という問いそれ自体が、すでに存在という大きな目的無きプログラムに組み込まれた、無数の小さなプログラムの一つにすぎないかもしれない。

自分が誕生日だったからか、妙に自分が生きていることの意味を考える。去年の誕生日から一年、死ぬことも無くふたたび誕生日を迎えた不思議さを。

もう40回近く誕生日がきているわけで、とくに感慨のようなものはないが、昨夜はみんなで食事に行った。しかし、隣の部屋に長男の同級生や知り合いの家族・子どもたちが来ていて、みんなそっちに行ったっきり。静かな誕生日だった。