ところで人はどのようなときに欲することを止めるのだろうか。・・・とすごい話を始めると見せかけてじつはかなりどうでもいい話なのだが、ブラームス交響曲全集の話である。

クラシック音楽をある程度聴く習慣がある(「習慣がある」ということが第一義で、音楽を理解できるかとか感性が豊かだとかそういうことはこの場合あまり重要ではない)者は、ブラームスに限らず、ベートーヴェンマーラー、バッハ、とにかく名作曲家の名曲を、できるだけ良い演奏で(できればよい録音で)聴きたいという要求に突き動かされている部分が多ある。だからこそクラシック音楽情報誌では数年に一回、「名曲のベストCD聞き比べ」という企画が客を呼び、そこに紹介されるCDが飛ぶように・・・とはいかないがとりあえず幾ばくかは店の在庫から掃けるわけである。
とはいえ、そうやって何度も行われてきたベストCD合戦も、過去数回をふりかえってみれば、上位の録音はほとんど変化なかったりしていささか脱力である。バッハの無伴奏チェロ・・・そりゃ確かにカザルスの演奏は感動的だし、すごいことは、認める。でも、1930年代に録音されたこの録音が21世紀になってもベストワンって、なんだこれ?となるのも人情ではないだろうか。そんなことを考えているうちに、「この曲は○○という指揮者が□□というオケを振った録音がベスト」とか、そういう話についていけなくなってきた。どうでもいいじゃんそんなの。「いま自分がもっているこの録音よりも、もっとすごい録音があるはずだ・・・。」そうやって「より良いもの」を求めるために、自分の手元にあるものを否定して、自分の持っているものを強引にランク下げるやりとりがひどく倒錯的に思えてきた。もうどれも一緒じゃん。っていうか一緒でいいじゃん。そう思っていた。
そんなとき、魔が差して買ったのがサイモン・ラトルブラームス交響曲全集。ブラームス交響曲全集なんてすでに何セット持ってんだよ、増やしてどうすんだアホか俺はなどと自分に呆れながら聞き始め、そして思った。ああ、もうブラームス交響曲全集買うことは今後おそらく無いだろうな、と。しかしそれは「けっきょく他のと大差ない。一緒じゃん。」という諦めではなく、「ヤバイ・・・これ自分にとって決定盤だわ・・・」という高揚感をふくんだ「打ち止め感」だった。
ホッチキス個人の場合に限っての話だが、とりあえずブラームス交響曲全集については、ベストCD合戦とかランキングは無意味になった。

人によっては、なんとも古典的で、古臭い時代遅れの演奏だと思うかも知れない。サイモン・ラトルのことだからひどく前衛的で尖った、今まで聴いたことないようなブラームスを期待した人にはとんでもない肩透かしかもしれない。もともとラトルのことを才能無いと思っているクラシック・ファン(どうやらけっこういるようだ)は、ますますもってその印象を強くするかも知れない。自分も今時こんなどストライクな重厚ブラームスが新譜として出るとは(といっても発売されたのは2009年だが)思っていなかった。
いかし、聴けば聴くほど、この曲はこういう曲だったのか・・・こんな音がレイヤーみたいに重ねれれていたのか・・・と見た目の重厚さとは裏腹に、そのクリアで明晰な演奏にまったく目(耳)が離せなくなってしまった。深刻になりすぎず、ブラームスの哀愁とか暗さとかいう既存のイメージに流されず、それでいて軽くなりすぎず・・・今のところ知・情・意のバランスがこれほど取れた演奏は聴いたことがない。聴いているとどうしてもそちらにひきづられてしまって、勉強するときのBGMには向いていない。
実はこのCDを手に入れる少し前、エリオット・ガーディナー指揮のブラームスを聴いていた。

Symphony No 4

Symphony No 4

このときも既存のブラームス的イメージ(=根暗・哀愁・重厚・・・)をすっかりそぎ落とした古楽器特有の繊細でクリアな音作りに「ああ、善いものを聴いたなぁ」と思っていたが、いまひとつすっきりしないものがあった。文学的なイメージや装飾をすっかり排除した、曲の構造そのものが判明な演奏が好きだという個人的な好みににドンピシャなガーディナー盤に満足できなかった理由が、いまなら少し分かる気がする。
一つは、自分の年齢的なものもあって、昔から馴染みまくうているブラームスのイメージから完全に脱却するということがほぼ不可能に近いということであり、もう一つは、ブラームスの音楽というものが、曲の構造を把握し理解した理性的演奏だけではすくいとれないものを多分に含んでいるということではないだろうか。適当に言っているけど。ガーディナー盤もすばらしくて好きだけど、すごく丁寧に書かれた設計図を見せられているだけな気がする。「そ、そして・・・」のプラスアルファがその演奏にいまひとつ見出せない。

そして、最初のほうでランク付けがどうのこうのと文句を言っていたわりには、演奏を比較するような矛盾したことをする、そんな自分が今日もここにいるのである。