車谷氏の新刊にうかれている隙を突くようにまた本が飛び込んでくる。
丹生谷貴志三島由紀夫論あるいはフーコー論となれば手に取らずにはいられない。

三島由紀夫とフーコー“不在”の思考

三島由紀夫とフーコー“不在”の思考

車谷氏にしても、この丹生谷貴志さんにしても、文章とか、文体とか、そういものが表現たりえるということを、僕にはじめて教えてくれた気がする。

われわれのイマージュ世界は常に誰かの或いは何かの死後の世界であり、常に誰かの或いは何かの生前の世界である。そしてそれは無限個のモナドにおいて無限に交錯し、無限のイマージュの持続において持続している。私は誰かの死後の世界を生き誰かの生前の世界を生きる。猫たちはわれわれの死後の世界を生き生前の世界を生きる。蜂たち猫たちの死後の世界を生き生前の世界を生きる・・・・・以下同様。
        持続と記憶/『ドゥルーズ・映画・フーコーISBN:4791754638


何が以下同様なのかよく分からないが、改めて読み返して、ある時期かなり真似してこういう感じの文章を書いていたことを思い出した。

もちろんそこには、たとえば、同じ「花」や「ピンク」という単語でも松本隆松田聖子とではそこから広がる世界や言葉の質性がまるで違うように、(つまり妻がよく使う比喩を借用すれば)作詞における「松本隆松田聖子の違い」以上に、大きな隔たりがあったのだが。

言うまでもなく、「言葉」を突破することを主題とする小説家は完全に矛盾した存在である。馬鹿らしい確認だが、そこには「言葉」を「言葉」によって突破するという堂々めぐりの自家中毒しかさしあたりありえないからである。絵画を否定-破壊することを意図する絵画が要するに絵画でしかないように。しかしともあれ三島は、おそらくそのことを自覚的に、自家中毒を肥大化させて行くという方法を選ぶ。風船を破裂させるためには、さしあたり風船を膨らませ続けるしか方法はないのだ。ここに、「言葉」をおそらく最終的にはその枯渇・消滅までをも希求するほどに憎悪しながら、異様なまでに「言葉‐文体」に拘泥する三島由紀夫のスタイルが形成されていく。
     「何もない」が現れる/『三島由紀夫フーコー 不在の<思考>』所収 より

こうしてみてみると丹生谷さんの文体それ自体が堂々めぐりの体をなすかのようにも見える。しかし、それは理論が混濁していると非難される種類のものではない。むしろそこにこそ、読むこちら側をズズイと引き込む力があるのだ。

むしろわれわれは堂々めぐりの中へと踏み込まなければならない。
しかしそもそも堂々めぐりじゃないことなんてあるのだろうか?