テレビ

夕食後、テレビをつけるとNHK教育野村萬斎の『オイディプス』があっていて、妻と2人で思わず見入ってしまい、結局最後まで見てしまった。演出は蜷川幸雄

わざと半円形の舞台を作ってやっているのかと思ったら、アテネ公演だった。
もちろん台詞は日本語なのだが、そういう何語で演じるかなんて問題にならないぐらいこの物語は芝居を観る人には馴染みのある物語だということだろうか。特にギリシャの人にとっては。

もちろん、どういう物語かも、オイディプスの運命も、僕も妻も充分知ってはいるが、やっぱりドキドキしてみてしまった。
物語の力もあるだろうが、萬斎パワー?もちろんそれもアリだ。

オイディプスは自身の出自(自らの起源、自己の根拠)を知らない。正確に言うなら、もはや気づきつつあり、そこに確証を求めようとする。そしてそこにオイディプスの悲劇がある。

コロス オイディプスさま、なにとてお妃さまは狂おしいばかりのご悲嘆で、馳せるように立ち去られました。沈黙から不幸がどっと巻き起こりはせぬかと心配でございます。
オイディプスなんなりと巻き起これ!自分の素性を、おれはそれがいかに賤しくも、見届けたいのだ。あの女は、女のくせに気位の高い奴、おそらくはおれの下賤の出を恥じているのであろう。恵み深い運命の女神の子と思うているおれは、辱めを蒙ることはありえない。女神を母としておれは生まれ出て、わが同胞なる年月は、おれを卑小にも偉大にもした。このような出のこのおれは、今後もけっして変わることなく、おれの素性を底の底まで探ってみせるぞ!

ギリシア悲劇〈2〉ソポクレス (ちくま文庫)

ギリシア悲劇〈2〉ソポクレス (ちくま文庫)

自分とは何か?自己とは何者なのか?ホッチキスカンガルーにはおそらく大きすぎるテーマだ。
だが、その問いを突き詰め、そしてその問いが解かれることはこのオイディプスの物語では破滅を意味している。

自分とは何かと問うことは、そもそも問うに値する「自分」がまず存在しているということを実は前提としている。つまり自分とは何かをとうことは、絶対的な起源としての、穢れ無き純粋な自分が存在するということをもうすでに知ってしまっていることになる。あるいはそのような「確信」を抱いているということになるであろう。

逆にカルスタ的な視点から「主体なんては無いんだよ」ということも同じことだ。結局は「主体がある」という前提を置かないかわりに「主体は無い」という前提を置いているだけだ。

だが、それを突き詰めていくことはどうも問題があるんじゃないか、むしろ起源と思っているものを直視しようとすること、或いは起源を確定しようとすることは、そして純粋な起源としての自己という存在を自明なものとして前提することから出発する思考は、時として事態を難しくしてしまうだけではないのか。いわゆる「自分探し」がいろいろと訳わかんなくなるのもそのあたりと関係があるのかもしれない。

では何が私を私として存在させるのか。そんなこと僕にわかるわけないが、そこには他者や鏡像などの現代的な問題構成が必要なはずだ。

とはいえ、古代ギリシア人はもうそんなこと最初からお見通しだったかもしれないが。

だが個人的には、次のようなところに解決の糸口がある気がしないでもないような気がするといえないだろうかとふと思ってみたりする。

水銀は重力的均衡を求めて、そういう動きをしている。人間もそれと同じで、味覚上の均衡を求めて箸が揺れ動くだけなのに、人間の場合はそれを迷い箸として馬鹿にされる。
 だから僕も、むやみに馬鹿にされたくはないので、人前では迷い箸を避けるようにしている。ウニならウニにさっと箸を出すようにしている。しかしながら、頭の中では疑念でいっぱいである。いま、本当にウニでいいのか。

優柔不断術 (ちくま文庫)

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と書いているうちにお腹が空いてきた。