若かりしころのスーさん。

死について書くことは揚げたてのコロッケについて書くことで食欲を満たすの同じぐらいに、すくなくとも僕を途方に暮れさせるには十分なほどに絶対的な遠さを目の前にした時のような疲労感を僕に抱かせる。

この数日、スニフ(以下スーさん)の死について書こうとしたがそんな僕に何か書けるはずもなく、ただ時間ばかりが流れるだけだ。こんなことに時間を使う僕をみたらきっとみんなこう言うだろう。君という存在はスーさんにとってはそもそも年に2,3回ぐらいしか会わないようなよく分らない人間の一人にすぎないじゃないか。それに、そんな猫の死について書いたところでいったい誰が喜ぶというんだ?

彼らの言うことは正しい。オーケー、認めよう。120パーセント正しい。
でも、すくなくとも、次のように言う権利ぐらいは僕にも残されているんじゃないだろうか。つまり、スーさんという猫についての文章がこの世界に一つぐらいあってもいいんじゃないか、と。
書くことで癒しを求めているのか?もしそうだとしたらそれはとんでもない自己欺瞞じゃないのか?
でも、ここに書かれていることは癒しでも、何か変化を生むような大そうなものでもないだろう。書くことが癒しの、あくまで試みではあるかもしれないと言うことはできるかもしれないが、、書くことが癒しになると思うほどもうナイーヴではない。

だから、この文章はスーさんのためでも、彼の死を語るためでも、まして自分のためのものでもない。何物でもない、ただの文章にすぎない。そこにはオチもなければ泣ける話もない。そしてギリシャ悲劇の中に見られるような教訓にいたっては皆無だ。