在りし日のプー

スーさんの11年の人生が長かったのか短かかったのかはよくわからない。そもそも11年というその時間の計り方自体があまりに人間的だからだ。でも猫にとって11年という人生が何を意味しているのか、その問いはまた各々の人間が「自分の人生とは何か」とおのれに問うことと同じぐらいの重さを持っているだろう。

僕はスーさんの晩年のほんのちょっとの時間を共にしたにすぎないと思っていたが、よく考えてみればスーさんと初めて会ったのが5年前。半分とはいかないが、ほぼそれと同じぐらいのスーさんの人生を見てきたことになる。

会う前のスーさんについては妻や、妻の実家の人たちの話を通じてしか知らないし、僕もずっと以前に聞いた話だから多少の誇張やズレがあるかもしれない。
でも、この世界の何処に正確な歴史記述やものごとの記憶があるというのだろう?
われわれの心は石ではないのだ。それが親しい者の記憶であれば、良い方にも、或る場合には悪いほうにも傾いて当然ではないか。