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昨夜、出来上がった書類を各方面へメールで送付。
その前にひととおり妻に読んでもらい、ツッコミをいれてもらった。
ずいぶん長い時間一人で書いてきた文章なだけに(そのぶん自分では内容が分っているだけに)、もう自分で読んでも何が良いんだか悪いんだか分らなくなるときがある。
そんなとき、こうして第三者に読んでもらうと、誤字脱字までチェックしてもらえるので本当に助かる。
そういえば村上春樹さんも、小説ができあがったら最初は奥さんに読んでもらうと何かのエッセイで書いていた。
「まずは妻からはじめよ。あと何とかなる」とか、そんなふうなこと言っていたような気がする。
確かに、最も近くにいるが故に、或る意味最も遠くにもいるわけで、批評家としてはかなり強力かもしれない。
と思っていたら、今日の夜になってメールを送ったうちの一人から「メールは来たけど何も添付されてない」という連絡。
技術的なトラブルだったらお手上げだ・・・と一瞬呆然としたが、まあ何とかなったので、それでよしとしよう。
今朝、また大家さんが松の剪定に来てくれる。
ずっと手元を見ていたのだが、やはりまだ枝の取捨選択の基準がよくわからない。
深遠だ。
また隣の隠居の先生が来て、2人がいろいろと昔の話をするのを聞く。
大家さんは戦時中、戦闘機の操縦士として、宮崎や鹿屋に配属されていたらしい。
パイロットといっても下っ端のころは操縦しながら自分でツーツーとモールスも打たなけらばならなかったが、だんだん階級が上がると専任の通信兵を乗せて飛べるらしい。
大家さん(当時22歳ぐらい)が自分と組むことになった通信兵に年を聞くと、その彼は16歳と答えたという。
昔だから数えで16とすると、満15歳ということだろう。
15歳か・・・。
自分が15歳のときは盗んだバイクで走り出すことすらもできなかった。
大家さんは訓練中にこの町(つまり自分の故郷)の空を戦闘機で飛んだことがあるのだ。
ほんとはあんまり訓練コースを離れて飛んじゃいけないんだけど、「どうせすぐ死ぬんだし」と思って大家さんは自分の町に寄って行った。
このときのことは、実際にこの「里帰りフライト」に居合わせてしまった町の人達だけでなく当時を知る人達のあいだで結構伝説になっているらしく、その伝説によれば、大家さんは「神社の境内の木の高さギリギリを飛び」あるいは、「女学校の校舎の横スレスレを飛んだ」らしい。
大家さんの話は日時や場所の記憶が非常に細かい。それだけ毎日が「必死」だったということかもしれない。