きのう、ここ数日、現実逃避的に「読みたい欲」がウズウズしていた「吉田秀和全集」を拾い読む。

以前の日記にも書いたが、去年のクリスマス、妻に古本屋で買ってもらった(13巻揃いで1万円ほど)もの。

適当にスルッと引き出した第6巻「ピアニストについて」のグールドのところを読み、ちょっと感動。

吉田秀和全集〈6〉ピアニストについて

吉田秀和全集〈6〉ピアニストについて

グールドがバッハをピアノで弾くのは、それが単に奇抜さを狙ったものでは全然無く、チェンバロクラヴィコード、ピアノといった楽器の特性を理解したうえでの選択であったことや、グールドのベートーヴェン解釈が強弱記号やテンポの点で顕微鏡的に見ていくとベートーヴェンの指示と違うが、曲全体としては見事に整合性のある、十分説得力のあるものであることなどが吉田秀和の名文で語られていく。


調子に乗って別の巻も開いてみる。第4巻「現代の演奏」。

よく「楽譜に忠実」かどうか云々と論じられるが、たとえばp(ピアノ)もf(フォルテ)も、どの程度の音量が小さく、大きいと言えるのか?クレッシェンドはどれぐらい大きくなるのか?それは楽譜を読むこちら側の判断にかかっている。

夾雑物をはさまず、楽譜に書いてある通りを忠実に音に移すなどということは、言葉の戯れか、精神の怠惰でしかない。それほど楽譜は不完全な記号で埋められている。

「意味深い演奏とは」p.27

p(ピアノ)もf(フォルテ)も、クレッシェンドもテンポも、生身の人間が演奏するからには人の数だけ、あるいは同じ人が弾く場合でも或る時点AとA’では違うのではないか?
ということは同じ人が演奏する場合でも違った弾き方の可能性が無数にあるということか?では、その中からどうして「ある一つの演奏」が選ばれるのか?

これらすべて―そのほかにも多くの問題がある―に解決を与えるもの。それは、それぞれの時代の論理的著作でも―これが非常に参考になるのはもちろんだが―《楽譜に忠実》といった簡単な標語的精神でも不十分だ。まずその前提になるものは、その演奏家の音楽的感性と知性。あるいは言葉の意味での趣味と経験。そしておそらくは、そのすべてを貫いて土台となるべき《芸術的良心》《芸術》に対する誠実さであろう

吉田秀和全集 第4巻「現代の演奏」p.21

音楽的感性とか知性とか言われると深遠すぎてよくわからないけど、でも確かに「誠実さ」っていうファクターは作品とか文章に不思議と出てしまうし、しかもなぜかそういうところだけ敏感に感じたり感じられたりすることって結構あるから、怖いですよね・・・。