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15日の午前零時をすこし過ぎた頃、つまり、日付が変わって15日になってすこし経った頃、友人夫婦のところに子どもが生まれたという連絡があった。お父さんになったばっかりのダンナさんから電話がかかってきた。
二人が三人になるのだな・・・、と思った。
そして、何よりも、めでたいことだし、すばらしいことだと思った。
生まれてきた子に、たくさんの祝福があることを、心から願った。
写真はその子のためにシルク・スクリーンで作った布の一部。
ほんとうにおめでとう。
そしてこの15日は午後7時から後輩の結婚式の二次会。
重ねてめでたい。彼らにもたくさんの祝福を。
なんだかすごい美男美女のカップルだったが、ほとんど同窓会状態になって4次会まで飲みまくり。
最後は、残った男5人で新郎を胴上げして解散。
たった5人でこのガタイのいい新郎を持ち上げられるのか?と不安になったが、意外と高く上がった。
とにかく、ほんとうにおめでとう。
一夜明けて家に帰ると、人に出したメールの返事が来ていた。
久しぶりに人格を否定された。
「君は人としてのマナーを知らない。まずはそれを身につけることが先決だ。」
なるほど、確かに僕は褒められた人間じゃない。
でも、僕の質問の答えになっていない。
人間として、とか、善意でやっていることに批判するなとか、そういうモラル的な枠組みで語るのは、問題のすり替えだし、或る意味、自分たちに対する批判はどんなものも許さないと言っていることと同じだ。「善意でやっている我々に反対する君は人でなしだ!」というわけだ。
だが、その善意が「善」であることは、一体何が保証しているのだろうか?
自分達が「善意」であることを疑わないことは、そもそも「善」なのか?
でも、もとはといえば、話が通じない相手にそういう質問をした僕が悪いのだし、わざと相手が怒るような書き方をしたのも事実だ。
今思えば、すこし試してみたかったのかもしれない。
この人を。そして、自分達が所属するこのグループを。
自分たちへの批判、とくにその批判がどうしようもなく酷い批判であればあるほど、その批判にどうレスポンスするのか、たとえば、とりあえず受け止めてみるとか、もう流しちゃうとか、どんな批判もゆるさないと明言してしまうとか、それによって、その人たちがどういう人たちなのか、だいたい予想がついてしまう。
いろいろ言い返したいこともあったけど、もともとは自分がまいた種なので、とりあえず平謝りの姿勢を見せた。
はいはい。あんたたちが100パーセント正しくて僕が100パーセント悪いんです。
天国と地獄を垣間見たような2日間だった。