きのうはビックリしたよ・・・。

このところ懸案だった文章がほぼ出来上がった・・・ような気がする・・・と言って自分を慰める。

といっても、来月のはじめに発表しなければならないので、特別早く出来上がったとは言えない。

別にぼっちゃんのせいにするわけではないが、こんなにも自分のことがどうでもよくなるとは思わなかった。ぼっちゃんが出てくるまでは、「まぁ、それはそれで、僕は・・・」と思っていたが、ぼっちゃんをなめていた。


っていうか、予定日も大体わかっていたのだから(予定日より2週間ほど早かったけど)、大変なことになる前にちゃんと仕上げておけよ、と一人でツッコム。


今日の朝食は昨日頂いた自家製パンとホット・ミルク。温野菜のサラダ。
パンは中身が詰まってしっかりしていて、噛んで味わって美味しい。きっと酵母も自家製なんだろうな。2つ頂いたのだが、一つは青汁入りで、もう一つはご汁入り。

2切れほどであっという間にお腹一杯になる。


昼はちょっと遅くなったのでJAのお弁当を買いに行く。地元のおばちゃんが作った煮物がかなり美味しい。百戦錬磨、な感じ。

僕もJAのお弁当にしようと思ったが、ちょとムクムクと食欲が出てしまって、スーパーのてんこもり弁当を買う。中に入っているのは鳥の照り焼きかと思ったら、食べると意外とスパイシーな味付けで、ちょっとびっくりした。


自分が今関わっていることと関係ないものを読もうと思い、本棚から適当に一冊抜き出す。
三島由紀夫の『小説家の休暇』。

小説家の休暇 (新潮文庫)

小説家の休暇 (新潮文庫)

日記のような、評論のような、だが魅力的なテキストだ。
ときどきパラパラと眺め読み(?)すると、ときどき「おっ」と思うような文章に出くわす。ある店にはいると、隣のテーブルに力道山がいたとか、何だかそんな時代なのかーと思ってしまう。

やむなく六人で田村町銀馬車へ行き、呑みかつ踊る。となりの卓に力道山が来ている。(P.58)

呑みかつ踊る、というのが何だか粋だ。


三島由紀夫には『音楽』という小説があるが、内容は今で言う心理カウンセラーと、彼を翻弄する不思議な魅力を持つ女性相談者の話なので、別に音楽が前面にで来るわけではない(もちろん、「音楽」が重要な意味を持っているわけではあるが)。

三島由紀夫の書いたフランス文学や演劇、美術に関しての評論やエッセイは数多く目にしてきたが、音楽やコンサートについて書かれたものが少ない気がする。

自分は蓄音機もレコードも持っていないと言いつつ、次のように三島は言っている。

音楽というものは、人間精神の暗黒の深淵のふちのところで、戯れているもののように私には思える。こういう恐ろしい戯れを生活の愉楽にかぞえ、音楽堂や美しい客間で、音楽に耳を傾けている人たちを見ると、私はそういう人たちの豪胆さに驚かずにはいられない。こんな危険なものは、生活に接触させてはならないものなのだ。
 音楽というかたちのないものを、厳格な規律のもとに統制したこの音楽なるものは、何か人間に捕らえられ檻に入れられた幽霊と謂った、ものすごい印象を引き起こす。(P.16)

どこまで本気なのかわからないが、これから考えるならば、三島にとってno music,no lifeとは狂気の沙汰ということになるであろう。
あるいは、われわれはあまりにも音楽の力に鈍感であるということだろうか。