はやく片付けろよ。

今日もジミに家の片付け。徐々にいらないものが減っていっているので、作業は進んでいるのであろうが、押入れの奥からダンボールを引っ張り出して中のものを広げて・・・と、目の前がだんだんと修羅場と化していくので、「良い方向へ進んでいる」という実感が持てない。考えをまとめたり、書いたりするときと一緒だ。一度はカオスをくぐり抜けなければならない。

・・・と思うそばから、出てきた文庫本を読み出して作業はいっこうに進まない。小林秀雄の「モオツァルト・無常という事」(新潮文庫)・・・。今年はそういえばモーツァルト・イヤーだったなと思いつつパラパラとめくる。もう何度も読んだ文章だが、久しぶりに読んでもビシバシくる。例えて言うなら、何だかよく分らないカセットテープが出てきて、試しに聴いてみたら音質も音楽も生々しくて腰が抜けそうになるような、そんな感じだ。

モオツァルト・無常という事 (新潮文庫)

モオツァルト・無常という事 (新潮文庫)

パラパラめくっているとあの有名な一節にぶち当たる。

確かに、モオツアルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる。空の青さや海の匂いの様に、万葉の歌人が、その使用法をよく知っていた「かなし」という言葉のようにかなしい。(p.41)

う〜ん、モーツァルトの悲しみは疾走するのだな・・・と思いながら読み進めると、その後の部分も何だか泣けそうで、困った。

彼はあせってもいないし急いでもいない。彼の足取りは正確で健康である。彼は手ぶらで、裸で、余計な重荷を引摺ってはいないだけだ。彼は悲しんではいない。ただ孤独なだけだ。孤独は、至極当たり前な、ありのままの命であり、でっち上げた孤独に伴う嘲笑や皮肉の影さえない。(同上)

「でっち上げた孤独に伴う嘲笑や皮肉の影」・・・何だか、いつの間にかそんなものばかりしょいこんでいる自分に気づく。



今日の昼食は「元祖でぶや」2時間スペシャルを見ながらのほうれん草とベーコンのスパゲティ。

夕飯は、その影響ではないが、マーボー豆腐、白ご飯、ほうれん草と南関揚げの味噌汁。
マーボー豆腐が辛すぎてよく味が分らなかった。でも確実に言える事は、異常なまでにご飯がすすむということだ。