眠ったぼっちゃんを持ったまま立って読んだ本。「この2人の組み合わせってスノッブな感じだね」と妻に言われた。まぁ、確かにね・・・。三島由紀夫フーコーを重ね合わせることができるとしたら、そのことはどのように語られることなのだろうか。「言葉」と「現実」(世界?)の関係、「語ること」が不可避的に「権力」であるような「言葉」をめぐる思考において両者は結びつく。

いくら望もうと、私たちは「言葉」の輪廻の粘着から逃れることはできない。「私たちの現実」は常にすでに、私でなければ誰か、誰かでなければ何ものかによって発せられ記される「言葉」の中に薫習されてしか存在しないのだ。「現実」だと思われたものは即座に誰が発し記したのか分らない「言葉」によって詐取されてしまう・・・。まずはそのことを確認することが『豊饒の海』の企画だったからである。何という不快!

三島由紀夫とフーコー“不在”の思考

三島由紀夫とフーコー“不在”の思考