sniff2006-04-06

きのうの肩や背中のコリ、胃の痛みは何だったのだろう?この数日間ほとんど外出せずに家にこもっていたことも原因のひとつかも知れない。今にして思えば家の空気が知らないうちにすっかり煮詰まってしまっていたような、そんな気がする。そんな気がしたものだから、朝から窓を全開にして家中の空気を入れ替える。

きのうに比べればだいぶ身体が軽くなったから少しジョギング。3キロほど軽く走ると汗ばむ。もう春が近いのだ。

妻がちょっと職場へ顔を出すというので、そのあいだぼっちゃんと散歩。今日は近所の神社で植木市があっていて、柿や桃の苗木やブルーベリーの苗木などさまざまなひとたちが並んでいた。ミカン屋さんも来て八朔やパール柑など大きなミカンを売っていた。

一時間ほど歩いて帰ろうとしていると、ちょうど妻が車で通りかかったので、車に乗って帰宅。

家に帰ると近所の人や消防署のひとが集まっている。なんだろうと思うと、近所の方が亡くなったらしい。ふだん挨拶ぐらいしかしないし、最後に会ったのがいつだったのかもわからないが、やっぱり知ったひとが突然いなくなるというのは・・・。

でも、そんなことがあっても、生きている者のそれぞれの日常は続いていく。子どもの頃そんなことがものすごく残酷なように思えた。そして、自分もその残酷さからは決して逃れられないということが残酷に思えた。すこし大人になったいまでもやはり、いくらかのあきらめとともに、やはりその残酷さにしんとなる。

砕かれた世界、親しい者たちという中心を喪失してしまった世界がなお在る。世界から意味がこぼれ落ち、しらじらと漂白されてしまって

もなお、世界はたんにあるのだ。
親しいものたちの死すら、世界に穴を穿つことはできない。無数の死者が持ち込んだ世界の空洞もやがては存在によって埋めつくされる。だとすれば、恐ろしいものはではない。不在が底しれない恐怖を呼び起こすのではない。「ある」が、「イリヤ」」こそが底なしの恐怖の対象となる。死すらも呑みこみ。ある意味では死すらがそこでは無意味となる、存在が存在することそのものが「災厄」なのだ。(p.56)

※太字強調は原文では点による強調。

レヴィナス入門 (ちくま新書)

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今日の夕食は白ご飯、庭に生えていた菜の花の吸い物、そして長崎で買った魚の干物。
干物はヒラメのような、カレイのような、そんな感じの魚だったが、美味しくてびっくりした。


長崎で訪れた崇福寺。派手だな〜。

コウモリが可愛い。