「たとえば・・・」という感じで例をだすときに猫のことをだすひとはたいてい猫好きだったりするので、ぜったいこのひともそうだろうと思って読み進めていると、やっぱり猫を飼っているとしか思えない。


言語が世界の像だということを語る箇所で。

・・・それゆえ、ただ現実の状況に反応して現実の行動を起こすだけでしかない。つまりミミズには可能性はない。猫などでも、少なくとも我が家の猫なんかはそうなのではないかと私は常々疑っている。しかし、私は違う。いばるようなことではないが。(p.42)


論理形式についての箇所で。

「ミケは猫だ」という命題が真であることがわかれば、「ミケ」という名の論理形式もわかるだろう。つまり、ミケは猫なのであるから、しかじかの位置をもち、色・形をもち、重さをもつだろう。さらには成長と死がある。そして鳴いたり走ったり。噛みついたり障子を破ったり、さまざまなふるまいをする。(p.70)


あるいはまた、

目の前の光景の内に、たとえば一匹の猫、ミケを認める。だが、そのことはすなわち、ミケが他の場所に動いていったり、ミケがもっとスリムだったり、いまは寝ているミケが走りまわっていたり、さまざまな可能性を通じてミケがひとつの個体であるという了解を背後にもっていなければ成り立たないことである。(p.73)


伝統的な三段論法についての箇所で。

すべての猫はヘソをもつ
ある動物はヘソをもたない
それゆえ、ある動物は猫ではない (p.77)