それって日焼けだよ

どうも足がだるい。むくんだような感じで熱をもっている気がする。朝・昼・夕のぼっちゃんとの散歩、そして昼間はぼっちゃんの抱っこ寝のために同じ姿勢でじっとしていることが多いから足が疲れていると思っていた。
でも、ふと足を見ると足の親指と人差し指の間から逆Vの字にサンダル焼けの白い跡。

ああ、そうか。日焼けしたんだ。日焼けで足がむくんだような、熱を持ったような感じになったんだとそこで気づく。
でも、逆Vの字サンダル焼けなんて何年ぶりだろう。子どもの頃はあんなに当たり前だったのに。そのころはお風呂やプールに入ると黒く焼けた肌と白く残った肌のコントラストが余計に際立って見えて、すこし誇らしくもあった。

と、そんなことを思いつつも足を氷で冷やす夜更け。


ぼっちゃんを抱っこ寝させている間に、ときどきムズルぼちゃんをあやしながらツラツラと読んでいたらいつのまにか読み終わっていた。

『モードの迷宮』ISBN:4480082441『顔の現象学−見られることの権利』ISBN:4061593536なり重複する部分もあるが、よりエッセイ風な語り口が読み心地よい。

他人の眼に映るじぶん、それへの関心を失うとき、ひとはおそらくじぶんへの関心をも失う。自分のことより先に他人の気持ちに思いをはせること、それをわたしたちはエチケットやマナーと呼んできたが、それがまわりまわってじぶんを支えることになる。ひとはじぶんが他人の関心の対象となっているときに、じぶんの存在をもっとも強く感じるからだ。誰の眼にもとまらないほど、淋しいこと、つらいことはない。
ファッションとは他人の視線にじぶんを映すことで。じぶんをまさぐる行為なのだと思う。(p.150)

ここではもはや、ファッションとは自己表現だとか、個性の噴出というような意味では語りつくせない。ファッションとは、ある意味では他者の視線に身をまかせることであり、他者という鏡で(良くも悪くも)自らの存在を確かめることである。

自己表現あるいは個性ということを声高にいう人(あるいは逆にまったく着ている物に異常に無頓着な人)がときに寒々しく、鬱陶しく感じるのは、他者の視線があることをその人たちが忘れているからかもしれない。そのとき、その人の個性や自己の表出と引き換えに、われわれ「他者」はその存在を拒絶されているからだ。

おしゃれは他人の視線をデコレートするものだという考えかたがすてきだ。夏にはお坊さんやご婦人が白い生地の上に重ね着しているあの黒く透けたきものは、なによりそれをまなざす人の眼を涼ませる。逆に学校での先生のジャージー姿が生徒を傷つけることもある。私たちの存在はこの程度にしか扱われていないのか、と。服にはあんがい重い意味がある。(p.262)

ところでこの本はいろんなところに書いたエッセイを編みなおしたものだから、ときどき同じような話が出てきて不思議なデジャ・ヴに襲われたが、それはともかく、収録された文章が書かれたのは1996年から2000年のはじめ頃。思えば僕にとっては学校を出たり就職したり引越しを繰り返したり、いろんなことがありすぎて、はたしてその頃のファッションってどんなものがあったんだろうと、いくら考えても思い出せない。そもそも、そんな「ファッション」なんてものがあったのだろうか。