閉園回避

sniff2006-07-12

一時は閉園の危機に追い込まれたホッチキス保育園。
しかし、幸いなことに今日はなんとかペースをとりもどすことができた。

ぼっちゃんの声が日に日に大きくなっている。こちらの耳がキーンとなってしまうような「キャー!」という叫びが最近の得意技。絶対、声を出すのが楽しくて出してる。
それと同時に、なにか「ことば」のようなことをときどき言う。もちろん、「ウニャ、ムニャ、フム・・・」と正確には音節化されていない発声現象でしかないのだけれど、ときどき「オト〜サ〜ン」と言っているように聞こえる。
僕が聞くからそういうふうに聴いた音を脳の中で再構成しているのかなと思っていたら、妻も「今、オトウサンって言わなかった?」というぐらいだから、かなりの確率で「オトウサン」と言っているのだ!たぶん。

それと、最近はもう午前中は眠らなくなった。お昼休みに妻が帰ってくるまで起きている。
それはそれでつらいのだが、まぁ、ぼっちゃんがそうしたいというのであれば、僕らはそれに従うしかないのであって、そのあたりの如何にして「自分」を消すかというのが、一種の修行のようなものなのだろう。


午後はしかしながらうってかわっての爆睡。ぼっちゃん、ほんとうは眠たかったんじゃないの?

途中で30分おきに目を覚ますぼっちゃんをそのたびに抱き上げてまた寝かしつけ、先日読みかけの本を読む。

幼児の対人関係 (メルロ=ポンティ・コレクション 3)

幼児の対人関係 (メルロ=ポンティ・コレクション 3)

幼児の言語習得と感情性についての箇所を読んでいると、たとえば(生まれてくる弟あるいは妹への)嫉妬という感情がその幼児を取り巻く状況を変化させ、なおかつ、その変化を(つまり自分がもはや中心にはなりえないという諦めとともに)幼児が受け入れることを決意したとき、新しい関係性の次元が開かれるらしい。

まぁ、たしかにそうかもしれないし、そういう話は他の本にも書いてあるようなことだが、重要なことは、そこで幼児が「もう末っ子ではなく、一番上になることもありうる」という時間的構造を習得し、未来形や過去進行形を習得するという点だ。
他者との関係を再構成することと、時制を習得すること。なんだか不思議なつながりだ。

きのう買ったCDを聞きながら、ギーゼキングについて調べるが、ネット上ではあまり情報がなかった。吉田秀和全集をパラパラめくってると、13巻でギーゼキングについて触れている文章を発見。
若い頃の録音には「大丈夫かよ、おい・・・」と思わず思ってしまうようなものがあったが、年齢を重ねるごとに成熟し、大家となった同い年のケンプと比べ、

ギーゼキングは、こういうケンプとは逆に、まず出発点において、完璧な技術を身につけ、そうして、それ以上に重要なことは、一つの完成されたスタイルをもって、世に出た人である。(吉田秀和全集 13巻 p.349)

らしい。

読んでいると、昨日買ったCDを聴いてなんとなく感じたことがずばり書かれていて、「やっぱり吉田秀和さんって、すごいな」と思った。べつに吉田さんと一緒のことを考えていた自分がすごいというわけではぜんぜんない。何かモヤモヤっとしたものを抱え込んでいたそのときに、まさにそのモヤモヤにかたちをあたえるような「ことば」を記した吉田秀和さんがすごいのだ。

ギーゼキングをきいていると、私は、ときに、それがあんまり透明で素直で平滑で、淀みがないので。その音楽と私とのあいだを橋渡しする何かがほしくなる。それから、往々にしてあんまり淡白でさえありすぎる(同上 p.360)

晴れの日が続くと、ちょっと薄暗い雨の日もいいかな、と思うような感じだろうか。