すまぬ
午前中のぼっちゃんは9時ごろガクンと寝た後、40分ほどして起きた。
そのあいだ洗い物をして、掃除をしただけで、ぼっちゃんが起きたあとはずっと抱っこ寝。
なんどかフトンに置いたがすべて失敗。手を離した瞬間に起きてグズりだすぼっちゃん。
抱っこ寝で午前中が終わる。
シュレッダーの事故、ほんとうにゾッとする。僕が知っているシュレッダーって、紙を一枚ずつ入れて、横にあるハンドルをグルグルグルっと回すやつだけど、いつのもにか世の中もうそんなに甘くないんだな。
きのう、ゼミの夏合宿を訪ねる。
合宿自体は21日からだったのだが、今年はぼっちゃんのお世話で欠席。
合宿といっても、ジョギングとかそういうことはせず、ひたすら各人が発表して、みんなでコメントしあうという文系合宿。
大学の山の家(研修施設)は、都会からはずっと山奥の2、3時間かかるところにあるのだが、逆に僕の家からは30分のところにある。
とくに最終日は先生の趣味で丸一日山登りなので、みんなが出発するまえに研修所に行き、先生やゼミの仲間にぼっちゃんを見せる。
最初は酒臭い合宿所の部屋で固まるぼっちゃん。
でも、だんだん「おっ、父さんと同じ匂いのする奴らがいる」と思うのだろうか、みんなと打ち解けあう。
先生にもニッコリと笑顔。みんなにつかまり立ち、そのままズリズリ移動、テーブル上の酒のつまみの残り物に手を出す、などさまざまな得意技を披露。すこぶるご機嫌になる。
みんなと別れて帰宅。家に帰りつくとぼっちゃんはチャイルドシートでぐっすり。
そのまま抱きかかえて家に入り、フトンに寝かせる。
お昼になって妻が帰ってきても気づかず眠りつづけるぼっちゃん。
もしかしたらぼっちゃんなりに「うちのお父さんよろしく〜!」「せんせ〜い!うちのお父さんよろしくお願いしま〜す!」という風にあの場では気を使っていたのかもしれない。
そんな歳で気を使わせるこんな父ですまぬ。
ぼっちゃんが寝てる隙に読了。
ドゥルーズ―解けない問いを生きる (シリーズ・哲学のエッセンス)
- 作者: 檜垣立哉
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〈私〉という中心点に依拠しない倫理とは何か。
その問いを言い換えれば「ゆるぎない自分」、「本当の自分」なんてものを探さずに生きることはどのようにして可能か、あるいは、もし〈私〉という中心点に依拠しない生があるとしたら、それはどのようなものであり、どのように記述されるのか。
その問いに対しては、前人称的な共同体、絶対的な他者、私を越えた「死」など、〈私〉という中心点に代わってそのようなものを考えることで〈私〉を否定し、脱中心化することができると答えることができるだろう。
だがそれは「絶対的な中心点」としての〈私〉の代わりに、共同体なり他者なりの「絶対的な中心点」を設定した思考でしかない。
単純にいえば、それらは純粋性という観点から酷似するのである。それどころか、他者や死をめぐる言説においては、不在の中心が設定されるがゆえに、実際にはさらに純化された倫理の言葉が語られる危険がある。つまりいっそう先鋭的であr、そうであることに自ら酔うような正義や宗教の言葉が紡ぎだされる可能性がある。(p.99)
ではどのような思考が必要なのか。〈私〉に固執することでも、他者、死、正義の名の下に脅すことでも、トラウマや抑圧で生を語ることでもない。
必要なのは、揺らぎつつ変化するその生成の流れをそのまま肯定することであり、それは一見するとポジティヴだが楽観的なもののように思える。
しかし、それは同時に他者、死、正義、自分探しといった「逃げ場」を封じることで、逆に生きつづけることの過酷さにわれわれを直面させるものでもある。
・・・ということか?しかし、何か気になる・・・。
夕方、ぼっちゃんと家の周りを散歩して帰ると家の前に小さな蛇が!こども蛇?
玄関の中にスルスルと入ってしまったので、悪いけどホウキで外に出るよう促す。
それにしても、ぼっちゃんと一緒にいると蛇を見かけることが多い。これで5回目だ。
夕立のあとだったので、もしや天に帰りそこねた竜では、と梨木香歩風なことを思ったりしてみる。