最近のぼっちゃんはよくお眠りになられる。
朝の9時ごろからもう眠たくなってしまう。朝の6時ごろに目が覚めて一人あそびしたり、部屋をガサゴソ動きまわったりしているから、おそらく大人が出勤あるいは登校して朝の用事を片付けていると10時ごろにはなんとなくお茶でも飲んで一息つきたくなるのと同じなのだろう。

ただ、このときの朝寝が充実しすぎるとお昼以降はお眠りあそあばされず、僕はずっと散歩や、お部屋ゴソゴソの付き合わなくてはならないので本を読むどころではない。しかし、最近は昼寝もなかなかご立派。散歩ができなくて逆にこちらが寂しいぐらいである。

やはりハイハイ、つかまり立ち歩きなど多種多様な動きをするせいで体力を消耗するのであろうか。


ぼっちゃんがお眠りあそばされている間に本を読み進めていると、その角の総和が2直角となるなどの三角形に関する論理的な定義づけ(まさに三角形の本質であり理念と思われているもの)とその作図に対して子どものデッサンが対比されている場面が気になった。この場合の「気になった」は「ムッ、今書こうとしていることに使えるかも・・・」というちょっといやらしい意味での「気になった」である。

もちろんそれは子どもの書くものやデッサンを貶めようというのではなく、どんどん線が加わっていって船になったり、家になったりするいい加減さ、無規定的で、手のままに偶然のままに生まれた線の集まり、夢想にふけるように想起しては互いに追いあうような複数の線に、ある意味で豊穣さを見いだそうとすることである。

ただし、それでは「子どもの絵=芸術作品」と等式が成り立つかというと、それは微妙な問題であろう。ただ、そこに芸術作品も含めた「表現」の始原的な姿が見出せるのではないか、ということは言えるはずである。「表現」は先行する理念は思惟の翻訳ではなく、むしろ手のままの偶然を呼ぶような身体の動作によって意味を与えられることによってはじめて意味を持つ。

手のままの偶然・・・。長電話のあと手元をみるとメモ帳に不思議な図形が出来上がっていたり、小学生の頃、授業中ノートに同じ図形を反復した書いたりしていた。しかもその出来上がったものって、いざ同じようなものを描こうとして描けなかった。(もし似たようなものが描けたとしても「何か」が欠けている。)



似たような傾向のものばかり読んでいたので、すこし方向を変えて、吉田秀和の「主題と変奏」(全集第2巻所収)を読む。

僕には、Gegenliebe というものが、まるで信じられなくなっていた。人間と人間との関係を規定するものは、憎悪だけだ。一方から他方への愛はありうるが、それは、もう一方にとっては耐え難い重荷であり、正直なところ人間には他の人間が存在するのが許せないのだと思っていた。僕は、生きるということが、自分のなかに何の確信もあたえてくれないことを悩んでいた。
 こういったやくざな考えが、そのほかにも頭の中に、うようよしていたが、今は大部分わすれてしまった。(p.9)

この文章が含まれているシューマンの章の冒頭を、寝返りをうつぼっちゃんが今にも起きるんじゃないかと内心ハラハラしながらも、その日は繰り返し読んだ。
ぼっちゃんもこんな気持ちになるときがくるのだろうか。