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きのうの夕飯も同じく作り置きスパゲティとコロッケのオン・ザ・ライス丼。
きのうはウスターソースだったが、今回は趣をかえてマヨネーズをあえてみた。
遠目で、薄目にしてみるとトルコライスのように見えなくもない。
きのうも『プロフェッショナル』を見る。
出すぎる杭は打たれない、か・・・・。
その前に、もっとギリギリと自分を追い込まなくては。
夕方から「今の君のような生き方ではダメだ」という声が頭の中や身体の中から聞こえてくる。そういうことだろうか。
夜、呼ばれるようにニーチェの『悲劇の誕生』を読む。もう何度か読んだ本だけど、やっぱり熱い本だ。人間と、人間そして自然との和解、結びつきの回復。それは科学とか、論理とか、そういうものとは別の道によって獲得されなければならない。たとえば、音楽とか。
歌をうたいつつ、踊りをおどりつつ、人間はおのれがより高次の共同体の一員であることを表明する。まさしく、踊りながら虚空に舞い上がろうとする。(西尾幹二訳)
きのう、ベートーヴェンはハイドンやモーツァルトの影響を受けて云々と書いたが、自分でもあまりに図式的過ぎること書いちゃったなぁと思いながら吉田秀和さんの本を読んでいると、「若いベートーヴェンは本当にそんなにハイドンやモーツァルトから影響をうけたのだろうか?」という文章にブチ当たった。(全集第1巻)
ここで書かれているのはだいたい次のようなことだった。
若い頃のベートーヴェンがハイドンやモーツァルトに影響を受けたという話は、青年期、壮年期、そして円熟の後期という3段階でベートーヴェンの芸術的発展を捉え、また、18世紀から19世紀へわたる音楽史的状況の中で特にこの三人(ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン)が中心的や役割を果たしたという19世紀的な歴史観にのっとって、特に青年期の作品をハイドンやモーツァルトの作品とのみ比較しているだけの話なのではないだろうか。似ているかどうかということを問題にするならば、ハイドンやモーツァルトよりもクレメンティ、ドゥセック、ケルビーニらのほうが似ているのではないだろうか。
作品番号が一桁のごく初期の作品にしても、楽器の使い方やそのヴィジョンにおいても、二人の大先輩とはまったく違っていると吉田さんは書いている。つまり、先人たちの影響下にあった青年期から、そうした影響と格闘しつつ徐々にそこから脱していき、ついに彼自身へとなる、といういわゆる弁証法的・発展論的な見方はあまりにものごとを単純化してしまう。
確かに、ある時代を生きることは、何がしかの影響を受けて当たり前だし、そうした受動性によってこそ、その世界の中に生きることもできるのであるが、そうした「全体」に対する「個」の問題があることも忘れてはならないだらう。
大芸術家の創造の場合は、若い時も老年になってからも差別なく、どこにも、その創造者の刻印がまぎれもない形でおされているのである。(p.591)
- 作者: 吉田秀和,篠田一士
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このあいだ館長にゴッソリ借りたCDの中にモザイク弦楽四重奏団という人たちが録音したモーツァルトの「ハイドン・セット」と呼ばれる弦楽四重奏曲集があった。
そのなかの弦楽四重奏曲第19番K.465いわゆる「不協和音」と呼ばれている作品が最近、妙に気になった。
冒頭、現代音楽かこれはという文字通り不協和音が奏でられると、あとは「そんなことありましたっけ?」とばかりにいつものモーツァルト節がコロコロと転がりだす。
う〜ん、謎だ。あの時代にどうしてこんな曲を書いたんだろう?