夜からお客さんが来ることになっていたので、朝から片づけをしたり、作るものについていろいろと手順を考えながらイメージトレーニングする。

実際にとりかかったのは午後からだったけれども、JAで買ってきたジャガイモと人参をまず皮ごと茹ではじめる。

そのあいだに餃子を作るべく、小麦粉と塩とオリーヴオイル(理由はわからないが、とにかく高山さんおレシピに書いてあった。素人なので、とりあえず先人の言うことは聞いておく。)、お湯を混ぜて粉をこねる。

あらかた粉がまとまってそれらしい生地風になったら30分ボールに水でしめらしてふきんをかけて休ませる。そのあいだに餃子の具を刻む。ネギと、肉とヨーグルトとすりおろした生姜、を混ぜ込む。あとで気づいたがヨーグルトは賞味期限が2週間ほど前に切れていた。
でも、熱を加えれば大丈夫・・・・だよね!?


そうこうしているうちにジャガイモと人参が茹で上がったので、水で指を冷やしながらジャガイモの皮を剥き、すり鉢でそいつらをゴシゴシ潰す。

ゆで卵も潰し入れようと思ってゆで卵を作ったら、いい具合に半熟たまご。でも、ポテトサラダ風ではない気がしたので、それは塩をつけておやつ代わりに食べて、もう一個確実に固ゆで卵になるようにふたたび卵を茹でる。なんだかきのうから卵を茹でてばっかりだ。

マヨネーズを混ぜ合わせ、黒胡椒をかるくふりかけてなんとかポテトサラダが完成。


餃子の皮生地のほうもだいたい時間になったので、切って、のばして、また小さく切って、丸くのばして、くっつかないように片栗粉をまぶす。それでも片栗粉をちょっとケチったせいで何枚かくっついたままになってしまった。

ちょうど餃子を包み終わったところでぼっちゃんを迎えに行く時間になった。
もうすでに準備で力を使い果たして眠い。


7時半ごろ、お客さんたちが来る。こんど職場をやめて、実家のある県で働くことになった妻の友人の送別会。
僕らがちょうどこの町に住みだした頃とほとんど同じ時期にこの町に来た人で、そういう意味では「同期」な人だったが、たぶん、今が飛び立つタイミングなのだろう。

こんどの仕事もやっぱり子どもたちと関わりあう仕事で、本人もやりがいを感じてそうな感じが、僕らにとっても嬉しかった。

途中からもう一人遅れてやってきて、いろいろと、店では話せないような(狭い町なのでどこで誰が聞いているかわからない)話を妻達がしているのをはたで聞いていると、やっぱり今、旅立つべきだよ○○ちゃん、と思った。

ぼっちゃんは、すでに7時ごろから眠たすぎてハイテンションになってちょっとおかしくなっていたが、妻の友人のお姉さん達がくるとがぜん機嫌が良くなった。

が、間もなくガックリと就寝。



前から気になっていた記事なのだが、
http://www.hmv.co.jp/news/article/702070068

はっきりいって、こんなCDぜんぜん嬉しくない。
理屈はわからないけど、ようするにグールドの演奏をコンピューターで分析して、そして今、当時と同じ録音環境でコンピューターに弾かせて再現しようということなのだろうが、分析はどこまでいっても分析であり、録音環境の再現はしょせん再現なのであって、グールドの演奏(もちろん誰の演奏でもそうなのだが)とは別物だ。

何も「グールドは神聖な存在だ!」などと叫びたいわけではない。
というよりも(もちろん、技術的関心としてはこういうこともありなのだろうが)、最初にこの記事を読んだときから感じているのは、グールドをフランケンシュタインみたいに強引にテクノロジーで蘇らそうとしてるような気味の悪さだ。
擬似ステレオのほうがまだましだ。

うまく言えないが、こういうかたちで死者を蘇らせることはあまり良くない気がする。良くない気がする、というより、やっぱり気持ち悪い。