きのうは久しぶりに1時間ほどウォーキング&ジョギング。
そのせいか昨夜は吉田健一の『文明に就いて』を読んでいたら文章の心地よさも効いてウトウト。久しぶりに11時前に就寝。

夕食の後、youtubeで見つけたガキの使いジミー大西の英語レッスンや、たむらけんじのイロモネアを見ながら、こんど株式会社な小学校ができるという話について妻と話す。
敷地条件の問題で認可がどうのこうのという経緯があって、結局フリースクールのいう形でスタートしたらしいのだが、何でも、国語の時間以外はすべて英語らしい。もちろん先生は外国のネイティヴ・スピーカーたちだ。

なんか、自分たちだったら絶対そんなとこにはやらないだろうね、という話をしながらこのあいだ読んだ吉田健一さんが英語に就いて(「ついて」を「就いて」と書くのが最近の僕の流行りだ)書いたものを思い出した。

英語が旨いとか、旨くなるということは、一般には、ぺらぺら喋れることを意味してゐる。その証拠に、さういう英語が旨い人間が外国人、或は極端な場合には、やはり英語が旨い日本人を相手に英語を話してゐるのをみると、兎に角、ぺらぺら喋ってゐるといふことが先にたって、当人は得意満面、人間が人間と話をしてゐるというよりも、軽業師が大勢の前で何か芸当をやつてゐるのに似た印象を受ける。立て板に水といふのは、かういうことを言ふのだらうか。これを擬音で表せば、
「テケテンドンドンテンドンドン、テンツク、ドンチュー・シンク?」
これに対して相手が何か返事をする・・・・(中略)
そうすると初めの日本人は前にも増して勢いづいて
「テンテンテンテンテンドンドン、テンドンドン、テンテケテケテケテケ」とやりだす。
そしてこれを感に堪へて聞いてゐるのは、主に日本人である。(中略)我々は日本人がこのやうに立て板に水式に日本語でものを言つても、別にその日本人が日本語が旨いなどとは思はず、ただよく喋る奴だと、それだけでいや気が差してくるぐらいのことにしかならない。仮にそれが外国人であつても、そんな風に日本語でやられれば、相手が日本語を知つてゐるといふことは認めても、やはり煩さくて助からないことには変りはない。


吉田健一『英語 英文学について』(筑摩書房)、p.42


ヨシケン風に言えば、確かに、英語、英語とは言ふものの、結局は世界に存在する無数の言語の一つにすぎないのであつて、それが得意だというふ理由だけで上から見下ろされてぺらぺら喋られてもたまつたものではない。特にその話に内容も無く面白くもなんともなく、ただただ流暢さを見せつけられるとしたら、いっそ近くの川に飛び込んで、そのまま河童の川流れとばかりにその場を去るのが身のためだ。

一国の言語の主体をなすものはその国の文学であつて、その言語を知らうと思へばその文学を読む他ない。そこで言葉は始めて生きた形を与へられて、この生きた形を知ることが読むことなのである。つまり、読むことが同時に話すことを覚えることになる形で読まなければならないのであつて、これは何も特別に高級なことを言つてゐるのではない。

吉田健一『英語 英文学について』(筑摩書房)、p.21

吉田先生、そうは言っても、やっぱ難しいッスよ・・・と思わないでもないし、英会話教室で英会話を学ぶことも個人的には否定はしないが、それでも、こういうヨシケンのような感性を僕は信じたいと思ふし、今の教育に欠けているものはかふいう感性なのではないかと、柄にもなく言つてみるのである。