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週末はいつものことながら、ぼっちゃんウィークエンド。
妻の休みが今月から日・月になったので、しばらくはぼっちゃんと一日2人きりということはなさそうである。それはそれで楽になった気もするが寂しい気もする。
初めての試みで、ベビーカーなしで散歩に行く。
路肩が狭い割には車が多いところは安全を期して抱っこしていったが、神社の敷地中に入って降ろすと、あっちにフラフラこっちにフラフラと歩き出すぼっちゃん。
あんがい階段が好きなのだが、境内へと上がる階段を見つけると、結構な段数なのだが、とにかく手と足を使って登りだす。
まだ歩けない頃、特に去年の夏は毎日来ていたところだけれど、そこをいまぼっちゃんが自力で登っていっていると思うと、月日がたったんだなぁと思う。
しかし、あと数段のところで飽きてしまって、抱っこを要求。最後は抱えられてゴール・イン。
同じぐらいの歳の女の子に会ったときや、神社で出会った何かの取材クルーのお姉さんに会った時、がぜんぼっちゃんは歩くスピードが早くなる。「どうだい?オレってこんなに歩けるんだぜ!」とカッコつけているのだろうか。取材のお姉さんにはニーッと特別可愛い顔をしてみせるぼっちゃん。
いずれにしても、たくましいとも、心強いとも思う。
月曜日はぼっちゃんを保育園に送った後、百貨店であっている個展を観に市内へ。
しかし、妻が財布を忘れたし、僕も財布の中に小銭しか持っていなかったので、駐車場料金が上がらない前にソソクサと観て、ソソクサと車を出す。駐車料金は100円だったけど。
2人ともお腹が空いていたのでフラフラだったので、とりあえずカード支払いで昼食をとることにした。ランチ・タイムの焼肉屋へ。妻は石焼ビビンバセットで、僕は特盛カルビ定食。歳のせいか、ご飯は一回しかおかわりできなかった。昔は肉一切れにつきご飯一杯だったのに。2300円をカード支払いというのも、ちょっと貧乏くさいが、まあ、こんなこともあるだろう。
久しぶりに牛肉を食べて身体がビックリしたのか、帰りにぼっちゃんを保育園に迎えに行って家にたどり着くと、そのまま泥のように眠り込み、意識を失う。そのあいだいろいろとぼっちゃんがちょっかいを出していたらしいのだが、ぜんぜん気づかなかった。
夜、このあいだ不要本放出で救い出してきた一冊を読む。以前読んだ気になっていたのだが、今回、改めて腰を落ち着けて読む。
- 作者: オイゲンヘリゲル,Eugen Herrigel,柴田治三郎
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1982/10/16
- メディア: 文庫
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雨に濡れたか前の持ち主がお茶をこぼしたか、ちょっとパリパリになって読みにくかったが、全体としては3章に分かれていて、特に第2章が面白い。1章と3章はいかにも西洋人的な禅理解と言うか、ちょっと理屈っぽくて退屈だった。1章の理屈っぽささへ切り抜ければ、2章はイッキに読める感じだ。
2章はドイツからやってきた著者へりゲルと弓の師匠である阿波研造との間で交わされたエピソードが描かれている。肺で呼吸するな、腹で呼吸と言われて困惑したり、無心ということを言われてやっぱり困惑したり、でも、たとえ外国人でないとしても、困惑しない人がどれだけいるだろう。僕だって、たぶん、頭が真っ白になるだろう。
そこで私は、「無になってしまわななければならないと言われるが、それではだれが射るのですか」と尋ねた。すると先生の答はこうである。―「あなたの代りにだれが射るのかが分かるようになったなら、あなたにはもう師匠が要らなくなる。経験してからでなければ理解できないことを、言葉でどのように説明すべきであろうか。仏陀が射るのだと言おうか。この場合、どんな知識も口真似も、あなたにとって何の役に立とう。それよりもむしろ精神を集中して、自分をまず外から内へ向け、その内をも次第に視野から失うことをお習いなさい」―
ヘリゲル『日本の弓術』P.34
日本人でも、分かるような分からないような、いや、やっぱり分からないな・・・。
この本には当時、ヘリゲルと阿波研造のやりとりに通訳として立ち会っていた小町谷操三という人の手記も収められている。
その中に、阿波研造が精妙な弓道をいろいろな禅語で語ろうとするあまり、ときとして表面上矛盾するようなことを言う場面(もちろん、この矛盾が矛盾でないところが肝なのだろうが)がいくつもあり、結局、ヘリゲルを混乱させないようにわざと自分は訳さなかったと述べていた。そういう気遣いもあったのだろうが、他の国の言葉に移し変えるということが難しかったからという理由もあるであろう。
ヘリゲルの文章の中の阿波研造と、小町谷操三の描く阿波研造はいくぶんイメージが違っている。ヘリゲルの描く阿波研造は峻厳な禅僧のごとき風貌をイメージさせるが、次のような阿波研造の姿は、この人物の熱さを伝えてくれる。
いつのころであったか、ヘリゲル君の稽古が始まる前に稽古に来ていた大学生があった。先生はその学生に、一本ごとに親切な説明を加えて弦を執ってやっていたところ、その学生が三、四本目の矢を放ち終えると、いきなりその頬をピシャリと張りつけた。学生は非常に緊張して次の射を試みた。今度は先生が大きな声で「ようし!」とどなった。それから先生と学生とは、いとも楽しそうにその日の稽古を終えた。
小町谷操三『ヘリゲル君と弓』(ヘリゲル『日本の弓術』、p.85)