夜、いつもより遅い時間に風呂に行くと、ちょうど女風呂から小さい女の子の声がする。ぼっちゃんと同じぐらい歳の子だろうか。その声にちょっと眠くて朦朧としていたぼっちゃんもハッと目が覚める。

今日は女風呂のほうからいつもより派手にうちのぼっちゃんや、他の子の声が聞こえる。泣き声も派手だが、これはきっとその女の子だろう。

先に上がって待っていると、女風呂の扉がひらいて女の子が出てきた。あれ?どこかで見たことがある子だなと思うと、やっぱりぼっちゃんと同じ保育園の子だった。

知り合い同士ということもあって、お風呂で一緒に遊んでいたらしいのだが、途中、女の子がおもちゃのコップをお母さんに取リ上げられて激しく泣くシーンがあったらしいのだが、そのとき、ぼっちゃんは自分が持っていたおもちゃの金魚をその子に、はい、と渡そうとしたらしい。

でも女の子は無視して泣き続けたらしいのだが、でも、そんなことがうちのぼっちゃんに出来るなんて・・・。

そういえば昼間のぞきに行った遠足(やっぱり行った)でも、ぼっちゃんより歳は上だろうけどそれどもちっちゃい子がぼっちゃんの服についた枯れ草をパンパンはたいてくれたり、「ほら、お父さんが来てるよ」と言ってくれたり、手を繋いで歩いてくれたりしていた。

泣いてるから慰めてよろうとか、何とかしなきゃとか、たぶん、保育園でまわりのお兄ちゃんやお姉ちゃんがそうしてくれるから、そういう環境の中でなんとなくそういことを学んだのではないだろうか。


ぼっちゃんが寝た後、先日の県立図書館の不要本放出大会の折ゲットした筑摩書房現代日本文学全集11巻「夏目漱石集」のなかに収められている「倫敦塔」を読む。

この全集自体は古本屋を3軒もハシゴすればその中の2軒には必ず山済みされてあるぐらいよく見かけるもので、特に古本としての価値があるものでもなんでもないのだろうが、1ページ3段組みで、「倫敦塔」のほかに「坊っちゃん」「それから」「夢十夜」「こころ」「道草」そして「修善寺日記」「人生」「現代日本の開花」「私の個人主義」がぎっしり一冊に詰まっている。ここに僕の好きな三四郎草枕が入っていれば完璧なのだが。

おとといは久しぶりに「夢十夜」を読んだ。
運慶は木に仁王を彫るんじゃなくて、木の中に埋まっている仁王を掘り出しているのだ云々とかいう話など懐かしいなぁと思う半面、盲の子ども背負って夜道を行く話や、無数の豚が顔を舐めに来るので片っ端からステッキでつついて絶壁に突き落とす話とか、読み終わるとけっこうガツンとやられたような、不思議な気持ちになった。やっぱり、小説ってこれぐらいパンチがないといけないな。やっぱりセカチューなんて読んでる場合じゃないな。

ところで「倫敦塔」である。
途中、ヘンリーだとかリチャードだとか王子とその弟だとかそういうエピソードが出てくるのだが、生憎こちらは無学な上に英国の歴史というものに関してはそれこそ薔薇戦争百年戦争の区別もつかないぐらいなので、この倫敦塔についていろいろと調べると、その昔ムーや子ども大百科シリーズの恐怖モノで知り覚えた知識が、それこそ倫敦の霞のなかの人影の如くボンヤリとではあるが消えては浮かび上がってくる。

そうだ。倫敦塔といえば幽閉や拷問、処刑など英国の血塗られた歴史(もちろんこのような歴史は英国に限らずどのような国家も蔵するものであろう。)が凝縮された場所であり、今でも当時処刑された王族諸侯の亡霊が場内を跋扈すると噂される或る意味最強のミステリーゾーンである。

痩せ細って無残な死を迎えたヘンリーとはヘンリー2世であり、王子と弟というのは、シェイクスピアの「リチャードⅢ世」の中で悪漢リチャード三世によって幼いながらも倫敦塔に幽閉され謀殺されたエドワード5世とその弟である。

門を入って振り返ったとき、
 憂の国に行かんとするものは此門を潜れ。
 永劫の呵責に遭はんとするものは此門を潜れ。
 迷惑の人と伍せんとするものは此門を潜れ。
 (中略)
 此門を過ぎんとするものは一切の望を捨てよ。

という句がどこぞに刻んではいないかと思った。
余は此時既に常態を失っ居る。

夏目漱石「倫敦塔」

本当に刻んであったんじゃないんかい!刻んであるような気がしただけかい!と思わずツッコミそうになってしまったが、最後の「余は此時既に常態を失っ居る。」にやられた。

途中、牢屋跡の壁に幽閉された者たちが絶望と共に刻んだ文字を前にして、漱石に目の前にパノラマのようにパーッと処刑の風景が現われたり、罪人の首を撥ねる斧を歌いながら研ぐ処刑人たちの姿が現われたり、もしや処刑された王妃その人ではないかという女性と実際に出会ったり、あと一歩で妄想小説になりそうな展開だが、そこはふっと肩の力を抜くようにスルリと諧謔と一抹の寂しさでかわしつつ、物語は終わる。