やっと朝の片付けが終わった・・・。

しかし、ぼっちゃんを保育園に送って帰宅した後、昨夜の夕飯の汚れ物を洗い、その前に、洗ってあった食器を棚に片付けたりして台所のシンクをきれいにし、部屋に散らばるぼっちゃんのおもちゃや絵本を片付け、掃除機をかけて、やっと仕切りなおし、という感じだ。

こういうのも意外と精神衛生上、良い方向に役立っているのかもしれない、と思いつつ、コーヒーを飲む。

最近、吉田秀和さんの『名曲300選』(全集第7巻)を読んでいたら「しかし、ヴァーグナーは、絶対に、きかなければならない」という文章にあたって、なんと、ヴァーグナーなのか、と、最近ニーチェの『悲劇の誕生』を読み返していることも関係あるかもしれないが、人生初のヴァーグナー熱がちょっと発生。
吉田秀和さんによれば、そうでなければその後のブルックナーマーラーR・シュトラウスも「ある体験を素通りしたうえの新音楽」になってしまう。

彼の総合芸術は巨大なごたまぜだ。けれども、ヴァーグナーは、すくなくとも、音楽の見地からみると、この世紀前半のロマン派がつみあげた全音楽語法を集大成し、かつ、それをこの世紀後半全部をかけておしつめた限界まで、徹底的にもっていったのだ。私のいうのは、十六世紀の過程をへて、十七世紀にかたまり、十八世紀、十九世紀をつらぬいて、ヨーロッパ音楽語法の脊椎となっていた調性の体系を、極端におしすすめ、破局の寸前にまでもっていったことである。 (p.175)

それならばと、CDの棚をさがすが、そういえばヴァーグナーのCDなんて積極的に買ったことなかった。以前、館長にもらったトスカニーニ10枚組みに入っている序曲集、それとカラヤンのやっぱり序曲集、そして妻が中学時代所属していた吹奏楽部の顧問の先生が当時の演奏をCDにしてくれたものの中に一曲(しかもリエンチ序曲というワーグナーのなかでもマイナーな曲)ぐらいしかない。

あっ、そういえばグールドのピアノ編曲盤があった。


ふとパラパラめくるとズイズイと引き込まれて一気に第4章まで読んでしまった。

西洋哲学史―古代から中世へ (岩波新書)

西洋哲学史―古代から中世へ (岩波新書)

たいていのこういう哲学史概説のとくにソクラテス以前の記述は、タレス:「万物のアルケー(始原)は水である」、ヘラクレイトス:「万物は流転する(パンタ・レイ)」という感じで受験の教科書的な印象を受けるものが多いのだが、著者のやわらかい語り口とあいまって、物語を読んでいるようで面白い。5章からやっとソクラテス達の話になる。

でも、このソクラテス以前の哲学者たちの思考は、「主観/客観」や「超越論的」といった概念によって語らざるをえない近代の哲学者的以上に奔放で、むしろそうした概念装置がないが故にすべてを一から語りだそうとする気概が感じられて、ああ、自分はこんなじゃだめだなぁと反省させられる。


それはそうと、今日やらなければならないのは、大家さんに水漏れのことを言いに行って、契約している水道屋さんに連絡してもらうことと(僕が直接連絡してもいいのだろうが、個人で連絡してもあまり相手にされないのが田舎の困ったところ。でも大地主である大家さんに連絡してもらうと意外とスムーズにすすむのが田舎のいいところ。)、銀行にいって銀行印の書き換え手続きのつづきを頼むことだ。とりあえずは。

こんな時、秘書とか執事がいればなぁ・・・と思うが、年に一度、年度末だけ忙しいだけの主人など、秘書にとっては迷惑なだけだろうなぁ。