ブログを書こうと編集画面に入るとどのようなキーワード検索でこのページにきたのかということがわかるのだが、「カンガルー保育園」で検索して来られた方がいた。

すみません。たぶん「カンガルー保育園」はフィクションです。

でも、もしかしたら「ルンビニー保育園」を検索しようとして、「あれ・・・なんだっけ、カタカナで最後が『ー』って伸びるやつ・・・?」という感じのニアミスなのかもしれない、なんてふと思った。


きのう、展示会場でDVDを見てもピンとこなかったことについて再び考えた。

そのワークショップのパンフレットには「”アート”によるフィールドワークの経験を通じて、環境におけるリアリティに出会う能動的でクリエイティヴな活動」云々と書いてあった。

もちろんこれは作家自身の言葉ではなく、企画した美術館の学芸員が書いたものであろうが、他に書きようがないものなのだろうか。
いったい、この文章を読んで何人のひとがピンとくるのだろうか。それとも、都会の人たちはこれを読んで何の問題も無くピンとくる人たちで満ち溢れているのだろうか。

妻が、作家が言うならともかく学芸員が作家と同じ言葉を使うのはどうかと思うと言ったが、僕もそう思った。学芸員が、自分達がまるで作家の側あるように思い込んで、作家・学芸員/観客というニ項的な枠組みを(意識的にも・無意識的にも)作ってしまうと、何かが閉じてしまう。

ただでさえ、作家/観客というやっぱりニ項的な図式は生じやすいのでるから、そこに切り込んでいく第3項として、ときには作家に「そういうことって作品どうこうの問題以前に、言葉で言った方が早いんじゃないですか?でも言葉で言った方が早かったらが、アートでなくてもいいんじゃないですか?」などツッコミを入れて観客・作家・学芸員の3方入り混じったバトル状態を生じさせてもいいんじゃないだろうか。

同じパンフレットには、「身の周りのことに意識をもって注意深く眺めたとき、その場に立ち会っている自分自身の存在に、はっと気づく経験を持っている方も多いのではないでしょうか。」という文章が書いてあったが、何のこと言っているのか、あまりに漠然としすぎてわからなかった。
たぶん、書いた人には具体的なイメージがあったかもしれないが、字数やスペースの関係で具体的なことは書けなかったのかもしれない。

でも、僕にも経験があるのでなんとなく抱いた印象としては、「とりあえず何かを伝えようと手探りで書き始めて、一応は書き終えたけど、それが他者に伝わるまでは十分に練ることができなかった」文章の匂いがする

それに、われわれにとって豊かな経験というのは、思い返してみると、「身の周りのこと」に「意識を持っていく」ことではない気がする。

むしろ、「身の周りのこと」に「意識が持っていかれる」ときに、はっとする間もなく、自分のほうがそのもののまわりを取り巻き、同時にそのものが自分に巻きついてくるとき、感動とかはっとするとか、そういう安易な言葉のとどかない深い経験をするのではないだろうか。
そしてそのとき、自分という存在は、「自分自身の存在に、はっと気づく」どころか、出来事の中に溶け込むかのように消えてしまうのではないだろうか。

このパンフレットの文章って、出来事を常に外から眺めて「ほほう・・・いいねぇ」とか「これがアート」とか能書きたれる主観のポジションを安全で不動のものとして最初から最後まで確保している気がして、ちょっと気持ち悪い。

もちろん、自分が消えればいいという単純な話でもない。どう頑張ったって、「見ている私」が消えることはないのだ。身体を持っているのだから。

・・・なんて言いながら、書き終えてみると、我ながらありきたりな話になってしまった。


もちろん、こういう作品のありかたがダメだとかそういう話ではなくて、今、自分が一番なにを求めているのか、ということとのギャップが大きいのだ。

もっと、大きな、スウィングする、熱いものが必要な気がする。
下の映像に溢れるようなパワーが。

そういうわけで、最近、ルイ・アームストロング熱が著しいです。