暦どおり保育園も休みなので、今日から4日間、ホッチキス保育園が開園。
今日は昼から暑くなりそうなので、午前中の涼しい時間に散歩。

途中、お店の人に話しかけられたり、そのお店の犬を触ったりしながら、ぼんやりと歩くぼっちゃん。
と書いたところで思い出したが、ほとんど歩いていない。散歩に連れて行けと言うわりには抱っこで運べと要求する最近のぼっちゃん。

その様子を保育園の先生に実は見られていて、「だましてでも歩かせないと散歩にならんですよ」とこのあいだ迎えに言ったときに言われた。

それはそうなんだろうけど、なかなか難しい。


市民ホールに入っていくぼっちゃん。中では戦時中この町の上空であった空中戦と墜落したB29から脱出した捕虜のその後(中にはリンチされて殺されたり、九州大学に送られて生体実験された人もいたらしい)関係の資料や、シベリア抑留関係の資料が展示してあった。
今日が最終日らしいが、確かに、いろいろと見てみたい資料はあるが、ぼっちゃんが会場をグルグル回ったり、主催者の人に「こんなものを聞いたことありますか?」と戦争で親をなくした子どもたちのことを歌った歌のカセット・テープや、その落下傘で降りてきた米軍保留と町民との間に起こったことをラジオドラマにしたもののテープを聞かせてくれるので、なかなか資料に目をとおすことができない。

主催者のひとにもらったせんべいをほおばりながら、会場をうろうろするぼっちゃん。しかし、そのうち眠くなって、そのまま寝てしまった。
眠り込んだぼっちゃんを抱きかかえて、ふたたび徒歩で帰宅。


今日は大学時代のサークルのOBOG会。しかも創設35周年パーティーもあるらしい(っていうか、今年35周年パーティーをやることに決めたのは僕だった気がする)
が、このあいだの規約改正やら元顧問のクソジジイのこともあって、今年は総会もパーティーも、すべて欠席することにした。
ついでにOBOG会副会長も、辞任届(辞任願ではなく)を出して辞めた。辞めてやった。

僕が辞任届をだしたことについて元顧問のクソジジイが「でも総会には出席してくれ」というメールを送ってきたが、ますます腹が立って、絶対出ねえ、と思った。

いいかげん機嫌を直して「いやー、先生、僕も言い方が悪かったですよ」というセリフの一つも出れば大人なのだろうが、そういう大人ぶったことをやろうとしている自分にも腹が立つので、この際、いっそのこと「なんでホッチキスの野郎そこまで怒るわけ?バカじゃね?」と他のみんなが思うぐらい子どもじみてみようと思った。

しかし、こうして怒ったり、がっかりしたりするのは、そもそも何かを信じていたり、期待していたりするからであって、最初から期待しなければこういうふうに心が波立つこともないのではないだろうか、そしてこんなことを夏目漱石も言っていたような気がして、いつも近くに置いてある『草枕』をパラパラとめくり、そのようなところを探して読む。

唯、物は見様でどうでもなる。レオナルド、ダ、ヴィンチが弟子に告げた言に、あの鐘の音を聞け、鐘は一つだが、音はどうともかかれるとある。一人の男、一人の女も見様次第で如何様とも見立てがつく。どうせ非人情をしに出掛けた旅だから、その積りで人間をみたら、浮世小路の何軒目に狭苦しく暮した時とは違うだろう。よしまったく人情を離れることが出来んでも、せめて御能拝見の位は淡い心持ちになれそうなものだ。

草枕 (岩波文庫)

草枕 (岩波文庫)

非人情、か。


ぼっちゃんが寝ているあいだ、まるで本に呼ばれたかのように、フロイトの『夢判断』の「夢判断の方法」のあたりを読む。病んでいるのか?オレ?

夢判断 上 (新潮文庫 フ 7-1)

夢判断 上 (新潮文庫 フ 7-1)

シラーの友人ヘあてた手紙をフロイトが引用している部分。

それだけ切り放して考えれば、ひどくつまらぬ考えもあるし、ひどく大胆な考えもある。しかし、おそらくそういう一つひとつの考えは、その考えに続いて起こってくる別の考えによって重要なものになり、おそらくは全然同じようにとるにたらないように見える考えとどうにか結びつくことによって非常に有益な考えになってくるのだ。(上巻、p.135)

意識的に情報を振り分けることは逆にあまり生産的ではないということだろうか。よくはわからないが。


お昼ごはんはまたまたナポリタンスパゲティ。

午後からは妻の職場にぼっちゃんを連れて行ったり、そこの前庭でぼっちゃんを遊ばせる。
妻の同僚の赤ちゃん(生後3ヶ月ぐらい)も来ていて、ぼっちゃん、興味深々。その赤ちゃんにつられてだいぶ眠くなってきていたが、結局最後まで頑張りとおすぼっちゃん。