子どもの日を明日に控えた今日、妻の実家のある宮崎からじいちゃんばあちゃんの荷物が届く。中には手紙のほかにお菓子や、義母がぼっちゃんにフェルトで作った魚釣りセットが入っていた。

釣竿(これもフェルト製)の先にマジックテープの固い方が付いてて、それで魚をくっつけて釣るのだ。
いまいち、まだぼっちゃんは意味がわからず、とりあえず魚をくっつけたりしていてが、釣竿で僕を叩いたり、または釣竿を僕の口に押しこもうとして、僕が苦しい顔をするのを見て楽しんだいた。

きのう、元顧問をクソジジ呼ばわりしたのはちょっと言い過ぎたかなと思ったが、特に修正はしない。

今回の件がどうしてここまで自分にとって引っかかるのだろうといろいろ考えたが、単なる意見の相違とか、意見の食い違いとか、そういうレベルではないような気がしてきた。

今日の茂木さんのブログに、聖徳太子の17条憲法の英訳のことが触れてあって、そこに引かれている聖徳太子の言葉は、うん、確かにそうだよな、オレって未熟だな、と深く自省してしまう。

人みな心あり、心おのおの執るところあり。彼是とすれば則ちわれは非とす。われ是とすれば則ち彼は非とす。われ必ず聖なるにあらず。彼必ず愚なるにあらず。共にこれ凡夫のみ。(以下略) (第十条)

聖徳太子の話を書いたらまた『日出処の天子』を読みたくなってきた。

それはともかく、確かに僕は「必ずしも」どころか、かなり完璧に「聖にはあらず」な人間だ。
でも、しかし、今回の件は、意見の相違とか話し合いとか、そういうことが可能な余地すら、もともとなかったところから始まっていたのではないか?

議論の最初から、「OBOGが規約を作り、現役に認めさせる」という結論ありきの話であって、それに対して反対した僕の意見はまったく聞く耳持たれなかった。

その後、ある後輩が僕の意見を取り上げてくれて、そのおかげで一度は白紙になったのだが、結局、現役がそうした話し合いの経過を受けて、自分たちで規約改正を行った。
しかし、その内容は、白紙に戻ったはずの、例のOBOGが現役に示した改正案をそっくりそのまま受け入れたものだった。

元顧問のクソジジイは「現役が自主的に決めたことで、喜ばしいことだ」なんていっているが、何かひっかかるのは、そういう無邪気さと、自分の権威性に無自覚なところだ。

OBOGや、元顧問兼現コーチが束になって規約改正を迫れば、一度は白紙に戻したといわれても、今の若い子達がそれを無視できるだろうか。

彼らは口をひらけば「現役の自主性なんて信用できない」と言ってきた。

しかし、今や、結局は自分たちの思いどおりになったことを、その自分達が信じていなかった「現役の自主性」に根拠を求めているわけで、なんとも虫のいい話だ。

でも、ほんとうのところは、OBOGや元顧問兼現コーチたちは、現役達が自分たちの言うことに歯向かえないだろうということを知っていたはずだ。それを知ったうえで「君たちの自主性に任せる」と言ったのだ。そうなると現役たちにもう選択の余地はない。

どうもこのあたりのセコいやり方が気にいらないのだが、それだけでもない気もする。

たとえば、小さいことだけれど、元顧問クソジジイのメールはいつも「ホッチキスへ」と呼び捨てで始まり、「〜してくれ」という書き方が多い。読み返せば読み返すほど、自己中心的で、自己弁護と責任回避ばっかりだ。

べつに呼び捨てされたりすることが気に入らないわけではない。でも、ぼくが敬意を抱いている人たちは僕のような年下のボンクラな人間に向かってさえ「ホッチキス君」だし、「〜してくれませんか」という書き方だったりする。

いや、それは表面的なことにすぎなくて、言いたいのは別のことなのだ。べつに敬称や丁寧な言葉を使えばいいというものでは、もちろんないのだ。

何だろう?結局、文面から伝わるものに「徳」がないということか?

なんだかよく分からなくなってきたので、また後日考えることにする。


小此木啓吾の『フロイト』をパラパラめくっていると、ちょっと可笑しいような、悲しいようなことが書いてあった。

とくにビンスワンガーは、学問上はしだいにフロイトの方法論と理論構成を批判し、独自の方法論と理論体系を展開していったにもかかわらず、アドラーユングをはじめその他の弟子たちが、学問上の離反と同時に個人的な友情も失う場合が多かったのと対照的に、むしろ、それ以後も終生フロイトとの愛情あふれる交流をまっとうした、数少ない人物の一人である。おそらく、これはビンスワンガーの側のやさしさに負うところが大きかったのではなかろうか。 (p.171)

フロイト (講談社学術文庫)

フロイト (講談社学術文庫)

やさしさに負うところ、というところで笑った。