書こう書こうと思ってつい忘れていたが、6月12日の夜、いつものお風呂に行った時のこと。
妻の話によれば、女風呂の中でぼっちゃんが自分のちんちんを指して「ちんちん」と言ったらしい。
そういうわけで、6月12日はちんちん記念日。

id:seijotcpさんの6月11日の記事(こちら)によって、自分の住む県内で「マスコミュニケーション学会」の研究大会が行われたらしいことを知った。ぜんぜん研究分野も違うし、おそらく話の中身も理解できるかどうかはちょっと疑問だが、紹介されているレポを読んでみると、もし事前に知っていて市内に住んでいたら(会場の熊本学園大学は本当に昔住んでいたところから自転車で15分ほどだ)聞きに行ったかもしれないなぁと思った。何度も言うように、ぜんぜん研究分野は違うのだが。
このあいだ書き上げた論文が思いっきり内向的なものだったのでその反動なのかもしれない。


同じ方が運営しているサイト「トラカレ!」で紹介されていたWWDC 2007におけるスティーヴ・ジョブズの講演の模様。
WWDC 2007 スティーブ・ジョブズ キーノート - Engadget 日本版
詳しい話はよく分からないが、それはともかくとしてもなんだか思いっきり楽しそう。やはりMacに鞍替えか・・・。


書籍出版 双風舎にて仲正昌樹さんが連載している「思想の死相―アドルノの思想を読む 「大きな正義」の落とし穴」でアドルノについて書かれた全5回を読む。また例の如く、パソコン上で読むと眼が疲れるので思いっきり字も小さくして行間も縮めて紙にプリントアウト。
アドルノはいま『啓蒙の弁証法』(ホルクハイマーとの共著。ちなみに、昨日までホルクハイマーをハルクホイマーだと思っていた。)をチビチビ読んでいるのだが、いまいちよく分からない。分からないと言うか、頭の中に上手く像を描くことができないようなもどかしい感じに近い。これはニーチェの文章がそうであるようにハマる人には劇薬のようにビシバシとハマるが、そうでない人にはすこし難渋する種類の「これは皮肉で言っているのか?」「これは文字通りの意味で読んでいいのか?」の分水領が見極めにくいことから生じる分からなさだ。

おそらく、この本のテーマは序文の冒頭に書いてあるとおり「何故に人類は真に人間的な状態に踏み入っていく代りに、一種の新しい野蛮状態へ落ち込んでいくのか」(p.7)を探求することにある。つまり、啓蒙という運動においてカオス的自然が道具的自然として解体され、同時に神話が解体されていく。なぜなら「計算可能性や有用性という基準に適応しようとしないものは啓蒙にとっては疑わしいものと見なされる」(p.28)からである。その経過の中で人間は理性的存在として自然を支配し、かつて神が座したその場を占めることになる。やったーっ!ゴール!にんげんバンザイ!理性バンザイ!啓蒙バンザイ!・・・だが話はそんなに単純ではない。
確かに、神話やアニミズムによって支配された原始宗教的な運命共同体(例えば太陽神を中心にした国家規模の家父長制など)は解体される。しかし、「啓蒙は古い不平等の不正を、媒介を経ない支配者層を破壊するが、しかし同時にそれを、〔貨幣による〕普遍的な媒介うちに、個々人相互の関係の内に永遠化する」(P.38)。人間同士の関係は原始的共同性によってではなく、今度は貨幣という普遍的計算尺度によって固定化される。そして結局のところ「自然における一切を反復可能なものと化す抽象的なものの支配と、支配が自然における一切をそのために整えてやる産業の下では、すべてが水平化され、結局開放された人々自身が、啓蒙の成果としてヘーゲルが指摘したあの『群』になってしまった」(P.39)のである。

では昔に戻ろう、自然に戻ろう。かつての共同体の絆を取り戻そう。・・・しかし話はそう簡単ではない。アドルノはそのような議論のノスタルジックな単純化に警鐘を鳴らしていると仲正さんは述べている。

「(アドルノは)自然を支配しようとする「理性」の動きを強引に止めて共産主義のようなものを実現しようとするのではなく、「ミニマル・モラリア(最小の道徳)」の立場を取ります。簡単にいえば、「道徳」なんてものは極力最低限のものに制限すべきだということですね。世界全体とか社会全体といった規模で何かを変えようなどという大それたことを考えると、ナチズムやスターリン主義のようになることがある。
(中略)
世界の進歩を信じ、世界はかならずこうなっていくから、自分“ら”もこう動かなければならない、というかたちで、上から下に押し付けるような道徳を実行すると、この世界を「生き生き」と破壊するだけの行為におわってしまうことが多い。アドルノは、それを言い続けました。「右」の生き生きも、「左」の生き生きも、「大きな道徳」を掲げたまま権力を握ってしまえば、けっきょく同じことなんですよね。


思想の死相 アドルノの思想を読む 「大きな正義」の落とし穴 第4回

それはともかくとして、今回読んでいちばん個人的に胸にグサリというか、痛いところを突かれたのは第5回の終りのほうで述べられていることだ。

これはアドルノの思想というより、アドルノから学んだ私自身の立場ですが、自分がその状況において言いたいことをいってしまったら、いったんこれは「おしまい」にすればよいのです。自分の「批判」の言葉をどう理解するかは、受け手が決めることです。思い通りに動いてくれなかったからといって、「一般の人々は深く騙されていて、自分の置かれている危機的状況をわかっていない」と、安っぽい疎外論的なことをいうのは僭越です。そんなことを言う人は、自分をあらゆる物象化から解き放たれているとでも思っているのでしょうか。そういう自分を「批判」しようという意識はないのでしょうか。


あ〜あ〜あ〜。深く反省・・・。