少し前になるが、急に思い立って村上春樹の『海辺のカフカ』を再読した。
作品が発表されたときにほぼ徹夜で読んだ。たしか当時は『海辺のカフカ』専用サイトがあって、メールを送ると、運がよければハルキさんが返事を書いてくれるというもので、たしか感想のようなものを送った覚えがある。あまり内容と関係なかったけど、返事が来て(といっても自分のメールボックスにではなく、サイトの掲示板に自身のメールと、それに対するハルキさんの返事が掲載される)ちょと小躍り的に喜んだ記憶がある。
今回、それらの往復メールを書籍化したもの(『少年カフカ』)をパラパラとめくったり、そこに掲載された自分のメールを読んで恥ずかしくなったり、それにしても時間が経ったのだなと思った。


何年か前に文庫化されたものを買ったものの、なんだか読まずに本棚のコヤシにしていたが、何故だか呼ばれるように読んだ。
最初に読んだときと一番違うのは、自身が父親になったということだろう。

この作品には、考え方によっては主人公の父親の投影のような存在が悪の象徴のようなかたちで描かれている。そして主人公は自分の父親に損なわれ、呪いをかけられたと思っている。その呪いはあまりに深いが故に、主人公にももしかしたらそれはなにかと言うことができないのではないか思われるまでに深い呪いだ。

最初に読んだときは「まぁ、こういう父親っておるわな。でもこういうふうにならんごとせにゃならんな。」とのほほん気取っていたが、自身が父親になって読んだいま思ったことは、父親であること、もっと言うと、親であるということは、もしかしたらわが子に呪いをかけることと同義なのではないだろうか、そして、その「呪い」のかたちや深さはさまざまだが、本人が望むかどうかは関係なく、宿命的に、子を損なう存在なのではないかということだ。

このような考え方はあまりに救いが無く、暗いものかもしれない。
あるいは「負」の面ばかりを強調した考え方と言えるかもしれない。
一緒に美味しいものを食べたり、海を見たり、山や空を見たり、笑いあったり、親が子どもにできるよろこばしいことは数え切れないほどある。そんなときの子どもって、世界に「祝福」されているような気がする。


でも、ふと思う。自分はこの「祝福」の時に、場に、単に居合わせているだけではないのだろうか。彼らを祝福しているのは世界であって、親ではないではないのではないだろうか、と。

それもまた偏った考え方だ。

(つづく)