sniff2007-08-20

ゲラをチェックして印刷所に送る。さすがにこのゲラチェックというか、校正というものにも慣れてきた。赤鉛筆で文章を削ったり、書き直したり、新しい文章を紙に書いてのりで貼ったり、なんだか我ながら吉田秀和チックだ(どこが?)。


先日、さてぼっちゃんを迎えにいこうと車のエンジンをかけて、ラジオをFM-NHKにあわせたところ、どこかで聴いたことのあるボソボソ声が。

まさにサ・カ・モ・ト!
なんなんだこの番組は?ふだんだったら、つのだ☆ひろその他が日替わりで司会の洋楽やポップスのリクエスト番組の時間帯のはず。
詳しいことはよくわからないが、とにかく何人かでバッハについておしゃべりをしていて、そのうち未完の3つの主題からなるフーガ(ヴィオール演奏版)がラジオから流れてきた。

ぼっちゃんを車に乗せ、帰りながら聴こうとすると、「チョット、チョット。」とぼっちゃんの声。
別にこれは僕に何か話しかけようとしているとかそういうわけではなく、「夕がたクインテット」のCDの中の『ちょっと』という曲をかけろと言っているのだ。ぼっちゃんはこの曲が大好きなのだ。泣く泣くラジオをCDに切り替える。

家に帰って調べてみると、『教授の愛したバッハ』という番組の、しかも再放送で、一緒にしゃべってたのは小沼純一浅田彰だった。


日曜日は母方の祖母のうちへ。つまり、ぼっちゃんにとってはひいばあちゃんだ。
途中、実家にって妹を拾い、高速と、ちょっと道に迷いそうになったがバイパスを乗り継いで、ついでに山を一つほど越えて、海の見える町へ。

子どもの頃は毎年、盆と正月はばあちゃんの家ですごすのが当たり前だった。われわれ家族のほかに、いとこの家族があと2,3家族来ることもあったから、10数人が一緒に寝泊りする、とても賑やかで大きなイベントで、けっこう楽しみだった。

でも僕が大学に入った頃からだんだん足が遠のいてしまい、就職や退職、結婚その他で自分のことで精一杯で、ほんとうにもう何年かに一度しか行けなくなってしまった。それは他のいとこ達も同じことだ。

前回行ったのは、確か、じいちゃんの初盆だったと思う。
じいちゃんは元炭鉱夫かつ漁師なので、一見怖そうな、いつもムッとした顔をしていた。特に僕らが小さい頃は、「〜するなよ」となにか注意めいたことを言うのも、乱暴な早口で、しかも酒がはいっていることが多く、何を言っているのかわからなかったので、どう接していいのか、子どもながらにとまどったこともあった。
そんな感じだったから他のいとこたちはじいちゃんの前ではすこし緊張気味だった。でも僕と僕の妹は、もちろん慣れなれしくするようなことはさすがにできなかったが、そんなじいちゃんのスタイルがものすごく「合った」。「合った」というとちょっと変だが、怖いというよりは、興味深く、さまざまなインパクトに溢れていた。僕の母はじいちゃんにとっては一人娘だったので、じいちゃんのほうも、その子どもである僕らには、他のいとこよりは、もしかしたら優しく接してくれていたのかもしれない。

じいちゃんが死んだのは、僕が結婚してすぐの頃だった。
最後に直接会ったのはいつだったかも思い出せない。

でも、倒れるほんの数日前、僕はじいちゃんと電話で話すことができた。
たまたま母から僕の携帯に電話がかかってきたとき、いつもなら無視するのだが、そのときは何を思うでもなく電話に出た。ちょうど何かでじいちゃんが入院していたときだった。
元気にしてるか?結婚したてな?ああ、こんど見舞いに行くよ。いいや、こんな病人ばっかりのところに来なくてもいい。どうせもうすぐ退院するから、それからでいい。

そんな他愛のない話をしたと思う。ぶっきら棒なところはかわらないけど、明るい声だった。
母の話ではそれから数日後、じいちゃんはトイレで倒れた。文字通り致命的な結果となった。
だから、そのときの会話がじいちゃんとの最後の会話だった。